第15話 咬ませ犬の一打
最終半荘、オーラス。点差は九百点。トップは氷室玲王、二着が俺だ。
三半荘を三日かけて打ち切る天頂位決定戦は、一勝一敗のまま最後の一局までもつれ込んだ。第二半荘の終わりに俺の胸を撃ち抜いた役満の衝撃が、まだ肋骨の裏で鳴っている。俺が自分の手で覚醒させた王者は、あの夜からずっと、化け物のまま卓に座り続けていた。
「東雲」
牌を積みながら、氷室が低く言った。
「礼を言っておく。麻雀がこんなに怖いものだと、俺は忘れていた」
「……勝ってから言え」
「言うさ。お前を潰してからな!!」
配牌が来る。指先が冷たい。心臓だけが熱い。観戦席の最前列で、ハルが両手を組んで祈るように俺を見ている。あいつは第一話からずっと、俺が散る瞬間ばかり見せられてきた。柴崎に逆転された夜も、雛が孵った日も、鴉山の倍満に沈んだ夕方も、あいつは俺より先に泣きそうな顔をしていた。
今日で終わりにする。散る側の物語は、もう十四回やった。
最終半荘は、殴り合いだった。東場、氷室が先制の跳満で会場を沸かせ、俺が親番の連続和了で喰らいつく。南場、俺の渾身のリーチを王者は一枚のロン牌も出さずに躱し切り、逆にツモの二連発で突き放しに来た。点棒は行って、戻って、また行った。実況席は途中から局面を追うのを諦め、ただ「すごいものを見ている」とだけ繰り返した。三日前まで退屈そうに点棒を渡していた男の面影は、もうどこにもない。俺が焚きつけた炎は、俺を焼き殺す高さまで育っていた。
そうして辿り着いたオーラスが、九百点差だ。
序盤から氷室は完璧だった。覚醒した王者は、俺が三日かけて教え込んだ全部を平然と使ってくる。俺の速度、俺の押し引き、俺の乱戦、その上に無敗の八年間が乗っている。危険牌が通る。待ちが読まれる。一巡ごとに、卓の上の空気が薄くなっていく。
それでも俺の手は、静かに形になっていった。
六巡目。手の中を見下ろして、俺は喉の奥で笑いそうになった。二つの道が同時に見えたからだ。
一つは、三倍満。あと二枚、引きと切り替えが噛み合えば、点棒を根こそぎ攫って王者を叩き伏せる、雷みたいな大逆転の手。決定戦の歴史に残る、誰もが語り継ぐ勝ち方。
もう一つは、千点。今すぐ整う、飾りも打点もない安手。氷室から直撃を取れば九百点の差がひっくり返り、その瞬間に試合が終わる。誰の記憶にも残らない、地味で、格好悪い、ただ勝つためだけの手。
かつての俺なら、迷いもしなかった。
大きい方だ。相手が最高の状態で、最高の舞台で、最高の一撃を浴びせて勝つ。それこそが鵜飼蓮司の弟子の麻雀で、覚醒屋・東雲陽の美学で――そして、十四回散り続けた男の、負け方の作法だった。
脳裏を、散っていった夜たちがよぎる。柴崎蓮に「最後まで信じろ」と叫んで沈んだ地下雀壇の決勝。雛に逃げ道を教えて、孵っていく翼を見上げるしかなかった鳴神杯。仕留められたはずのロンを、俺の手が勝手に見逃した瞬間の、鴉山の倍満の音。どの負けも熱かった。どの負けも、美しかった。美しかったから、俺は疑わなかったんだ。自分が、負けるために打っていることを。
「……ふ」
視界の端で、氷室の指が止まった。俺の気配の変化を、あいつはもう嗅ぎ取っている。
来る。口が、来る。
「なあ氷室、お前――」
喉が勝手に開いた。お前の待ちは甘い、もう半歩踏み込め、そこじゃない、もっと熱くなれ――相手を完成させる言葉が、胸の底から鎖を千切って昇ってくる。決め手が近づくたびに牌が重くなり、口が勝手に動く。六年間、俺を負けさせ続けてきた呪いが、最後の局でも笑いながら牙を剥く。
俺は奥歯で舌を噛んだ。第三半荘の第一局で噛み殺した唇の傷が、まだ塞がっていない。その痛みごと、言葉を飲み下す。
「……いや。何でもねえ」
「言えよ」氷室が笑った。「お前の言葉は、俺を強くする」
「知ってる。だから、やらねえ!!」
ハルが観戦席で腰を浮かせたのが分かった。あんた、今、我慢した!?――声は聞こえないのに、あいつの目がそう叫んでいた。
巡目が深くなる。俺の手は千点のまま張っていた。三倍満への切り替えの牌は、二度、指先まで来た。二度とも、俺はそれを河へ置いた。そのたびに、手の中で何かが軋んだ。美学が、役割が、六年分の言い訳が、音を立てて剥がれていく。
鵜飼の声が耳の奥で蘇る。楽に勝った自分を、お前が許せないだけだ――あの療養施設で喰らった言葉の意味が、今なら分かる。俺は華麗に負けることで、勝つことから逃げてきた。相手を主役にしておけば、俺は永遠に、敗者の美しさに包まれていられたからだ。
冗談じゃない。
俺は勝ちたい。ずっと、ずっと、意地でも勝ちたかったんだ!!
「リーチ」
氷室が千点棒を叩きつけた。卓が跳ねた。完全覚醒した王者の最終手。観戦席がどよめき、実況席の声が裏返る。ハルだけが、祈りの形のまま動かない。
空気が変わった。氷室の背後に、無敗の八年間が立ち上がるのが見えた気がした。挑戦者を一人残らず薙ぎ倒してきた男が、生まれて初めて「負けたくない」と全身で叫びながら牌を曲げている。俺が作った怪物だ。だったら、俺が止める。それ以外の結末を、俺はもう一つも認めない!!
一巡。二巡。俺は通る牌だけを探して切った。指先の感覚が消えるほど張り詰めた読み合いの中で、氷室のツモ切りの音だけが規則正しく卓を打つ。あいつの待ちは見えている。三日間、あいつの全部を見てきた俺だから見える。踏めば死ぬ場所を避けて、俺は自分の千点を張ったまま、細い橋を渡り続けた。
俺のツモ番。引いた牌は、三倍満への最後の扉だった。
これを残して待ちを組み替えれば、次の数巡で雷が完成する。王者のリーチを正面から捩じ伏せる、伝説の逆転劇。指がその牌の上で止まる。重い。今までのどの決め手よりも重い。
――お前は、どっちだ。
物語の脇役として美しく散る犬か。それとも。
俺は、その牌を静かに手から離した。伝説を捨てた。雷を捨てた。千点の、飾り一つない待ちだけが残った。
次の瞬間だった。
氷室の指が、一枚の牌を河へ放った。宣言の直後の、迷いのない、王者の一打。卓の照明を弾いて、その牌は俺の目に白く煌めいた✨。
俺の待ち牌だった。
見逃せ、と呪いが囁いた。鴉山戦で俺の手が勝手にやったように、一巡待てば三倍満が、と。相手はまだ完全じゃない、もっと輝かせてからでも、と。喉が開きかけ、指が強張り、心臓が一拍、止まった。
うるせえ。
「――ロン!!」
自分の声とは思えない声が出た。卓に手牌を倒す。飾りのない、千点の手。会場が、一瞬、完全に静まり返った。
「……千点」
審判の声が震えていた。「直撃、逆転。――終局!!」
九百点の差が、百点差でひっくり返った。それだけだった。三倍満もない。役満もない。語り継がれる名局でもない。ただ、俺が勝った。
「格好悪くても――俺が、勝つ!!」
言葉が、今度は俺の意思で出た。六年間、相手のためにしか動かなかったこの口が、初めて俺自身のために吠えた。
氷室が卓を両手で叩いて立ち上がった。全身が震えていた。怒りとも歓喜ともつかない目で、無敗だった男が俺を睨み下ろす。
「……こんな、勝ち方が」
「文句あるか」
「あるに決まってるだろ!! こんな終わり方で、俺の初黒星だと!?」氷室は吠え、それから、笑った。負けたくないと泣き喚く子供の顔で、心の底から嬉しそうに笑った。「次だ。次は俺がお前を喰う。覚えておけ、東雲!!」
「何度でも来い」
立会人がマイクを取る。息を吸う音まで聞こえた。
「天頂位決定戦、勝者――東雲陽!!」
勝者。俺の名前の前に、その二文字が付いた。二十一年生きてきて、初めて聞く並びだった。歓声が遅れて爆発し、ハルが柵を乗り越えんばかりに身を乗り出して、ぐしゃぐしゃの顔で何か叫んでいる。ばか、ばか、やればできるじゃない――多分、そんなことを。
俺は卓の下で拳を握った。悔しさで握り潰すためじゃない。この熱を、逃がさないためにだ。掌の中で、千点棒が一本、じんわりと汗ばんでいた。役満より重い千点だった。咬ませ犬が、生まれて初めて主役を喰った一打だった。
「……陽!!」
観戦席から駆け寄ってきたハルが、目の前で立ち止まり、何度も口を開いては閉じた。実況もツッコミも追いつかないらしい。やがてあいつは、涙で崩れた顔のまま、精一杯の憎まれ口を絞り出した。
「千点て何よ!! あんたの初勝利、地味すぎ!!」
「悪かったな」
「……ううん」ハルは首を振った。「最高だった。今までで、いちばん」
氷室が卓の向こうから手を差し出してきた。握った掌は、俺と同じくらい熱かった。覚醒させて、倒した。鵜飼の教えを、六年かけて、やっと最後まで打ち切った。あの山奥の男がこの結果を聞いたら何と言うか――どうせ、勝って当然だという顔で笑うんだろう。
会場を出ると、夜風が火照った顔を撫でた。帰ろう。志乃さんの店に。あの卓に。
ねむの木へ向かう俺の足音は、いつもより少しだけ、速かった。




