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第16話 それでも、次も勝ちたい

天頂位決定戦の会場を出ると、夜の空気が肺の奥まで一気に流れ込んできた。冷たいのに、痛くない。六年間吸ってきたはずの同じ街の夜が、今日だけはまるで別の場所の匂いがした。

 手の中には何も残っていない。賞状は運営に預けたし、点棒はとっくに卓へ返した。それでも右手の指先には、あの千点を拾い上げた瞬間の感触がまだ貼りついている。三倍満に届く手をへし折って、たった千点で試合を終わらせた、俺の麻雀人生でいちばん地味で、いちばん重い一打。

 場内アナウンスが俺の名を勝者として呼んだとき、正直、誰のことか分からなかった。東雲陽。覚醒屋。相手を主人公にして散るための男。その名前が「勝者」という言葉と並んで響いた瞬間、耳の奥で何かが音を立てて繋ぎ変わった。

 勝った。俺が、勝った。

 何度反芻しても足りなくて、俺は夜道を歩きながらもう一度だけ口の中で転がした。柴崎に逆転された夜も、雛に孵化の一打を撃ち抜かれた夜も、鴉山の黒翼に焼かれた夜も、鵜飼にすら勝てなかったあの療養施設の帰り道も、全部この一言のためにあったのだと思えば、悪くない六年だった。

 いや——悪くないなんて嘘だ。全部悔しかった。卓の下で拳を握り潰して、爪が掌に食い込んで、それでも翌朝には牌を握っていた。あの悔しさを一グラムでも軽く言ったら、散っていった俺自身に殴られる。

 思い出すのは敗北の夜だけじゃない。俺が散るたび、卓の外で俺より先に泣きそうな顔をしていた奴がいた。ハルだ。柴崎戦の後は「なんで言っちゃうのよ!!」と胸ぐらを掴んできたし、鴉山戦の後は何も言わずに自販機の缶汁粉を押しつけてきた。誰よりも俺の勝ちを願って、誰よりも俺の負けに怒ってきた観戦席の女子高生。今日、俺の名が呼ばれた瞬間、あいつは客席で立ち上がって、両手を突き上げて、それから顔をぐしゃぐしゃにして笑っていた。六年分の悔しさが全部あの顔で報われた気がして、俺は表彰の間ずっと客席を見られなかった。見たら俺まで崩れると思ったからだ。

 ねむの木の看板が見えた。古い電飾が半分だけ点いて、相変わらず「ねむ 木」になっている。あの欠けた明かりが、俺の帰る場所の目印だった。

 扉を開ける前から、中の気配がおかしいことには気づいていた。

 「おかえり、陽くん」

 カウンターの奥で志乃さんが笑った。柔らかい声のくせに、目だけが全部知っている目をしていた。この人はいつもそうだ。俺が散った夜も、勝った夜も、同じ温度で迎える。

 「ずいぶん遅かったのね。冷めない料理だけ用意しておいたわ」

 「……観てたのか」

 「六年前からずっとよ。あの人が置いていった宿題を、陽くんが今日やっと解いたところまで、ぜんぶ」

 あの人。鵜飼蓮司。志乃さんは多くを語らない。だが山奥の療養施設のあの男が、今夜の結果をどんな顔で聞くのか——想像したら、柄にもなく鼻の奥が熱くなった。楽に勝った自分を許せないだけだと看破した師匠へ、俺はやっと胸を張れる報告を持てたのだ。

 そして店のいちばん奥、いつもの卓に——四人分の影があった。

 「……おい。何の集まりだ、これは」

 「祝勝会です」

 まっすぐ答えたのは天城雛だった。制服姿のまま背筋を伸ばして、牌をきれいに十七枚ずつ積んでいる。「と言いたいところですが、違います。次の一打で、あなたの先へ行きます。その約束を果たしに来ました」

 覚えてやがる。俺が無言を貫いて、それでも捨て牌だけでこいつを育ててしまった、あの鳴神杯の宣言。敬語の奥で炎が揺れているのが分かって、俺は思わず口の端が上がった。

 「儂は茶を飲みに来ただけだ」

 鴉山玄堂が湯呑みを傾けながら、噓のつもりもない噓を言った。「……と言いたいが、まあ嘘よな。覚醒屋。お前は儂を蘇らせた。ならば責任を取れ。蘇った黒翼が今どこまで飛ぶか、貴様の目で見届けんか!!」

 老雄の声が卓を震わせる。八年分の錆を落としたその翼は、俺が罵倒で叩き起こしたものだ。責任、か。重い言葉だが、不思議と肩には乗らなかった。

 最後の一人は、窓際で腕を組んでいた。

 「氷室……」

 「言っただろう。もっと俺を本気にしろ、と」

 無敗だった男は、たった一敗を刻まれた顔で、それでも今までで一番いい目をして笑った。「お前は俺を本気にさせて、その上で俺から勝ちを毟った。なら次は俺の番だ。今度は俺が、お前を本気にさせて——その上で叩き潰す」

 「随分な挨拶だな。天頂位」

 「元、が付くかもしれない男に言われたくないな」

 ばちり、と視線の間で音がした気がした。冗談じゃない。こいつはもう、俺が知っているどの氷室玲王よりも強い。完全覚醒した王者は、敗北という燃料まで積んでしまった。次にやったら、正直、勝てるかどうか分からない。

 ——それでも。

 喉の奥が熱くなる。恐怖じゃない。武者震いってやつだ。

 「あんたたち、ちょっと待ちなさいよ!!」

 卓を叩いて立ち上がったのはハルだった。「順番があるでしょ、順番が!! 六年間ずーっとこの馬鹿の負け試合を見せられてきたのは誰? 卓の外で一緒に悔しがってきたのは誰? 私よ!!」

 「ハル、お前……」

 「言っとくけど、私、あんたに覚醒させられた一人なんだからね」

 ハルは牌を一枚、天井の明かりにかざした。安っぽい蛍光灯の光が、牌の白をきらりと磨いた✨。

 「今度は私があんたをかませ犬にする!! 王者を倒した東雲陽を私が倒せば、私が一番強いってことでしょ。あんたは私の踏み台。前座。引き立て役!!」

 「……はっ」

 笑いが漏れた。かませ犬。六年間、嘲りと一緒に浴びてきたその言葉が、こいつの口から出ると祝福みたいに聞こえるから不思議だ。

 「上等だ。全員まとめて座れ」

 俺は上着を脱いで、いつもの席に着いた。志乃さんが黙って山の脇に新しいおしぼりを置く。雛が対面、鴉山が上家、ハルが下家。氷室は「次の半荘で入る」と言って、審判気取りで俺の後ろに立った。首筋に王者の視線が刺さる。観戦ですら圧が強えんだよ、お前は。

 洗牌の音が店に満ちる。ざらざらと、雪崩みたいに、六年間聞き続けた音。

 配牌を取る。理牌をしない癖のまま、十三枚を横目で読む。悪くない。むしろ良すぎるくらいだ。

 東一局から、卓は真剣勝負の顔になった。鴉山の第一打が鋭い。守りの老人はもうどこにもいない。三巡目には早くも危険な色の牌を切り飛ばし、「若造ども、翼の畳み方は儂に訊くなよ」と喉の奥で笑う。雛は雛で、確率の骨格に度胸の肉を纏った打ち筋で、静かに、しかし一切引かずに付いてくる。鳴神杯の頃より二回りは強い。俺が育てて、俺が散らされて、その先でこいつらは勝手にもっと強くなっていた。

 嬉しいのが、我ながら度し難い。

 背後で氷室が小さく息を漏らした。「いい卓だ」と呟いたのが聞こえた。無敗の退屈を知る男が、場末の雀荘の一局にそう言うのだ。これ以上の賛辞があるか。

 そして数巡目——早くも俺は気づいてしまった。ハルの捨て牌が一色に寄りすぎている。狙いが透けている。焦りも透けている。黙って絞れば、こいつの手は絶対に完成しない。

 言うな。言うなよ、俺。

 なのに口の奥で、もう言葉が生まれている。「その狙いは悪くねえ、隠し方が下手なだけだ」——喉まで出かかったそれを、俺は飲み込まなかった。飲み込む代わりに、笑って言ってやった。

 「ハル。その手、丸見えだぞ」

 「なっ……言うなら勝負の外で言いなさいよ!?」

 「教えてやってんだ。その上で——俺が勝つ」

 卓が一瞬しんとして、それから雛が小さく吹き出した。「変わりませんね、あなたは。……でも、少しだけ変わりました。前は、教えたあとに苦しそうな顔をしていました。今は笑っています」

 「儂にはむしろ好都合よ」鴉山が牌を鳴らす。「餌を撒かれて釣られるほど、蘇った黒翼は安くないと証明できるでな!!」

 「三人とも減らず口はそこまでだ」と、背後の氷室。「東雲。お前の悪癖は治っていない。だが今のお前は、癖ごと卓に乗せて、それでも自分の勝ちを一ミリも譲る気がない。……厄介になったな、覚醒屋」

 厄介、結構。かませ犬、上等。俺は六年かけてやっと知ったのだ。相手を輝かせる癖と、意地でも勝ちたい本音は、殺し合わなくていい。両方抱えて卓に着く奴のことを、たぶん人は勝負師と呼ぶ。

 そうだ。これが俺だ。口は勝手に動く。手は相手の伸びしろを撃ち抜く。この癖は一生治らない。治らないまま、抱えたまま、それでも勝つ。相手を最高にして、その上で勝て。師匠、あんたの教えを、俺はやっと俺のやり方で背負えるようになったよ。

 決め手の牌は、もう重くない。

 「行くぞ」

 俺は第一打を、卓の真ん中へ叩きつけた。乾いた音が、次の戦いの始まりを告げる号砲みたいに鳴った——次も、その次も、意地でも勝ちたい俺のままで。

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