第8話 十五歳の野良犬
志乃さんから受け取った古い便箋は、思っていたよりずっと軽かった。四つ折りの紙の中に、色褪せたインクで住所が一行。鵜飼蓮司。六年間、死んだとさえ思っていた男が、この一枚の先で生きている。ねむの木からの帰り道、街灯の下でそれを広げた瞬間、指先が小さく震えた。怖いんじゃない。懐かしさと怒りが同じ場所から噴き出して、行き場をなくしただけだ。
鴉山さんとの敗戦は、まだ肩の奥に残っていた。当たり牌をつかみながら、手が勝手にロンを見逃した、あの感触。口だけじゃない、体までもが相手に猶予を差し出す。俺の病気は確実に深くなっている。そしてその病気を最初に植えた男の居場所が、いま俺の手の中にある。
「お前の病気を最初に植えた男は、生きている」——卓を去り際の鴉山さんの声が、耳の奥でまだ響いていた。志乃さんは封筒を差し出すとき、いつもの柔らかい顔のまま、一言だけ添えた。「行くなら、ちゃんと全部ぶつけておいで」。あの人は最初から知っていたのだ。俺がいつかこの紙を求める日が来ることを。
安アパートに帰り着いて、電気もつけずに畳へ倒れ込んだ。目を閉じる。天井が遠のいて、六年前の、安い煙草と雨の匂いが蘇ってきた。
十五歳の俺は、野良犬だった。誰にも飼われず、誰にも勝てず、それでも牙だけは捨てられない、行き場のない犬だった。
喧嘩は勝てなかった。体格の問題じゃない。殴り合いの最中、相手の目に本気の火が点る瞬間が見えてしまうと、俺の拳は決まって鈍った。追い詰めれば追い詰めるほど、相手の中で何かが目を覚ますのが分かって、そこから先に踏み込めない。理由なんて分からない。ただ負けて、蹴られて、川原に転がって空を見た。口の中の血の味と、遠くの電車の音。学校には居場所がなく、家には帰りたくなかった。
そんな俺が転がり込んだのが、駅裏の雑居ビル三階にある賭け麻雀の店だった。換気の悪い部屋に卓が四つ。壁の染みと、じゃらじゃらと鳴りやまない洗牌の音。ルールは店の隅で盗み見て覚えた。不思議と、牌の流れだけは見えた。酔った大人の癖も、捨て牌に滲む迷いも、面白いように読めた。小遣い程度の勝ちを重ねて、俺は生まれて初めて「勝てる場所」を見つけた気になっていた。拳で勝てない世界の代わりに、牌で誰かをねじ伏せる世界を。
だが、強い打ち手が来ると必ず負けた。しかも決まって、あと一歩の場面でだ。押せば終わる局面で手が止まり、余計な一言が相手の目の色を変えさせ、そこからまくられる。負けるたび、俺は卓を蹴った。点棒が散り、灰皿が跳ね、店の連中は俺を「卓蹴りのガキ」と呼んで嗤った。悔しかった。何に負けているのかさえ分からないことが、一番悔しかった!
その男が現れたのは、秋の終わりの、雨の夜だった。
長身に古びたコート。年齢の読めない静かな目。男が店に入ってきた瞬間、常連たちの空気が変わった。店主が上ずった声で「う、鵜飼さん……!」と呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。鵜飼蓮司。当時の俺でも名前だけは知っていた。公式戦を総なめにしながら檜舞台を平然と蹴った、雀壇の生ける伝説。
「小僧。卓を蹴るそうだな」
男は俺の向かいに、当たり前のように座った。
「打て。蹴りたくなるまで、付き合ってやる」
最初の半荘を、俺は一生忘れないだろう。
何もさせてもらえなかった。俺の待ちは全て事前に潰され、俺が押せば必ず先に和了られ、俺が引けばその分だけ淡々と削られた。読み合いですらない。俺の思考の三歩先に、いつも男の牌が置いてあった。自信のあった読みが、この男の前では子供の落書きだった。危険牌のつもりで抱えた一枚は最初から安全で、安全のつもりで切った一枚が急所だった。牌を卓に置く男の手つきは静かで、音すらほとんど立たない。なのにその一打一打が、俺の体温を一度ずつ奪っていく。派手な一撃は一度もない。ただ、完璧だった。完璧という名の暴力だった!
「なんなんだよ……あんた、なんなんだよ!!」
二度目の半荘が終わったとき、俺は立ち上がって卓の脚を蹴り飛ばしていた。点棒が跳ね、牌が崩れる。店主が飛んでくる。だが鵜飼は眉ひとつ動かさず、崩れた牌を一枚ずつ、丁寧に積み直した。
「座れ。まだ夜は長い」
「もう分かっただろ! 俺じゃあんたに勝てねえ! 弱いんだよ、俺は……!」
「違うな」
男の声は、静かなのに店中に通った。
「お前は弱いんじゃない。勝つ瞬間から逃げてるんだ!!」
心臓を、素手でつかまれた気がした。
「見ていたぞ。お前は押せば終わる局面で必ず手を止める。相手が立ち直る隙を、わざわざ自分から差し出す。喧嘩もそうだったんじゃないのか? 相手の目が本気になると、殴れなくなるんだろう。……お前は負けたいんじゃない。相手が最高になる瞬間が見たくて、自分の勝ちを捨てているだけの臆病者だ」
「黙れよ……」
「図星を刺されて吠えるな、野良犬が。悔しいなら卓で吠えろ!」
視界が真っ赤に染まった——はずだった。
握った拳の中で爪が掌に食い込んで、椅子を蹴って立ち上がる寸前まで行った。この男を殴るか、この店を二度と出るか。だが足は動かず、気づけば俺は、崩された山の前にもう一度座り直していた。逃げたら、この言葉が一生ついてくる。それだけは、十五歳の俺にも分かった!
そして、不思議だった。怒りが沸点を超えた瞬間、世界は逆に静かになった。雨音が消え、店のざわめきが消え、卓と牌と、目の前の男だけが残った。あんなに読めなかった鵜飼の捨て牌が、呼吸が、指先のわずかな逡巡が、痛いほど流れ込んでくる。生まれて初めて、怒りが視界を曇らせるのではなく、研ぎ澄ませていた!
三度目の半荘、南場の親番。俺は人生で一番深く潜った。心拍だけがやけに大きく聞こえる。配牌はバラバラ。それでも怖くなかった。一巡ごとに世界の解像度が上がっていく。鵜飼の張り巡らせた完璧な網、そのたった一箇所のほつれ——さっき初めて見えた、指先の逡巡が残した綻びに、俺は全部を懸けた。普通なら曲げる手を曲げず、普通なら止まる牌を止まらず、細い細い一本道を、俺は走り切った。
「リーチ!!」
声が割れた。店の誰かが息を呑む。鵜飼が初めて手を止め、こちらを見た。長い視線だった。値踏みでも侮りでもない、真正面から人間を見る目だった。一巡、二巡。指先が痺れて、点棒の感触も分からない。そして二巡後、俺の指が引き寄せた牌は、裏返す前から灼けるように熱くて、卓上の照明を受けて小さく光った✨。
「……ツモ!!」
倍満。伝説の打ち手から、十五歳の野良犬が一局を奪った音だった。
店内が沸いた。常連の誰かが「ガキが鵜飼から取りやがった!」と叫び、店主は口を半開きにしたまま固まっていた。だが俺は、それどころじゃなかった。全身が震えて、喉の奥が熱くて、意味が分からなかった。負け続きの半荘の、たった一局だ。トータルでは惨敗のまま。卓を蹴りたくなるはずの夜だ。なのに、なんだこの震えは!? 悔しさでも怒りでもない。もっと熱くて、もっと純粋な何かが、胸の真ん中で暴れていた。
「いいだろう。それだ」
鵜飼は点棒を差し出しながら、初めて笑った。
「怒りで目が覚めたか。今のお前は、さっきまでのお前より三枚は強い。……なあ小僧、今の一局は誰が作ったと思う?」
「……あんたが、挑発したからだ」
「そうだ。俺がお前を最高にした。その上で言うぞ——この夜、トータルで勝ったのは俺だ。相手を最高にして、なお勝つ。それが本物の強者というものだ!」
今の俺には、分かる。あの夜、鵜飼が俺にやってみせたことは、いま俺が卓の向こうで繰り返していることと、寸分違わず同じだ。相手の一番柔らかい場所に言葉を突き立て、眠っている本気を無理やり叩き起こす。俺は覚醒屋になるずっと前に、覚醒させられた側だった。あの震えを、あの一局の熱を体が覚えているからこそ、俺の口は今も勝手に動くのだ——目の前で誰かがくすぶっていると、どうしても。
「明日もここへ来い」
帰り際、鵜飼はコートの襟を立てながら、振り向きもせずに言った。
「次は麻雀を教える。お前のその牙は、野良のままにしておくには惜しい」
行かない、という選択肢は、俺の中のどこを探しても見つからなかった。
目を開けると、安アパートの見慣れた天井が戻ってきた。窓の外はいつの間にか雨で、六年前と同じ音がしていた。手の中の便箋は、あの夜つかんだ牌と同じくらいの熱を持っている気がした。会いに行く。会って、この病気の続きを、全部あの男に問いただす。だがその前に、思い出しておかなきゃならない六年間がある。
翌日から雨の日も店に通いつめて——十五歳の野良犬は、鵜飼蓮司の弟子になる。




