第7話 老王の最後の飛翔
オーラスの山が積まれる音を、俺はたぶん一生忘れない。
鳴神杯三回戦、俺対鴉山玄堂の最終局。点差は俺の一万二千点リード。黒翼の連続和了で削りに削られて、それでもまだ、俺が前にいた。この一局を無難に流すだけで勝ちが決まる。逃げ切るには十分すぎる点差のはずだった。
なのに、卓の空気は俺の勝ちをまるで信じていなかった。
正面の老人は、もう別人だった。二局前まで安全牌ばかり数えていた枯れた守りの打ち手はどこにもいない。背筋は伸び、瞳は黒く濡れて、牌を置く指の軌道は、八年前の映像で見た「黒翼」そのものだった。俺が蘇らせた。俺の口が、勝手に。
「陽!! 今日はもう何も言わないで! お願いだから最後まで黙ってて!」
観戦席からハルの声が飛ぶ。分かってる。痛いほど分かってる。俺は今日、開局からほとんど口を開いていない。雛戦で学んだからだ。喋らなければいい――いや、喋らなくても捨て牌そのものが教材になることまで、もう知っている。だから今日は打ち筋まで殺した。読みの鋭さを見せない、わざと凡庸な麻雀。歯を食いしばって、退屈な男を演じ続けた。あと一局。あと一局だけ耐えれば、俺は勝てる。
会場の空気も変わっていた。三回戦の卓なんて普段は係員しか見ていないのに、いつの間にか立ち見が二重の輪を作っている。八年前の名人が牌を切るたび、輪のどこかで息を呑む音がする。「黒翼だ」「本物の黒翼が戻ってる」。囁きが波みたいに寄せては返す。誰もが老人の復活の目撃者になりたがっていた。その復活の火付け役が、これから焼かれる側だとも知らずに。
配牌を開く。悪くなかった。むしろ、良すぎた。
六巡目で聴牌。待ちは二つ。どちらも鴉山の攻め筋の真上に立っている。リーチはかけない。声を出したくない。宣言のひと言すら、あの老人の薪になる気がした。俺は息を浅くして、ただ牌を並べ替えるふりをした。
「ほう」
鴉山が短く息を吐いた。それだけで卓が軋んだ気がした。
「静かだのう、覚醒屋。だが儂には聞こえておるぞ。お前の牌が、吼えておる」
喋るな。頼むから、俺に喋らせるな。俺は膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む。この痛みだけが、口に鍵をかける唯一の方法だった。
七巡、八巡。鴉山の捨て牌が加速する。危険牌を危険牌と思っていない切り方だ。守りを捨てた老人は、八年分の遅れを一局で取り戻すみたいに、真っ直ぐ俺の喉元へ手を伸ばしてくる。ハルが観戦席で祈るように両手を組んでいるのが視界の端に見えた。
九巡目だった。
鴉山の指が、山から一枚を引き剥がした。その瞬間、老人の呼吸がほんのわずかに乱れた。長年卓に置き忘れてきた何かを、いきなり掌に戻された男の顔。引いた牌を見つめる目の奥で、一瞬だけ、あの枯れた守りの打ち手が顔を出した。切るか、抱えるか。攻めの型を取り戻した肉体と、八年間染みついた恐怖とが、指先で綱引きをしている。
そして老人は、迷いを振り切るように、その牌を卓へ叩きつけた。
――俺の当たり牌だった。
ロン。たったの二文字だ。声に出せば終わる。俺の勝ちだ。鳴神杯の準決勝進出、雛への借りも、この老人への責任も、全部この二文字が精算してくれる。喉が動いた。動いた、はずだった。
声が、出なかった。
喉の奥で、二文字が凍りついたまま動かない。心臓は正しく跳ねている。頭は正しく「勝ちだ」と叫んでいる。柴崎戦の夜も、雛との三日間も、俺はずっとこの瞬間のために耐えてきたはずだ。なのに喉だけが、まるで別の生き物みたいに沈黙を選んだ。
見えてしまったからだ。牌が卓に触れる寸前の、指の震えが。八年ぶりに恐怖ごと牌を切った老人の、その一打がまだ完成していないことが。今この牌を討てば、鴉山玄堂は「蘇りかけたまま」終わる。翼を広げた瞬間に撃ち落とされた鳥として、今度こそ二度と飛ばなくなる――。
気づいたときには、俺の視線は何事もなかったように自分の手牌へ戻っていた。
摸打が流れる。卓は何も起きなかったことになっている。俺だけが知っている。今、俺は勝利を見逃した。口じゃない。今度は喉が、目が、この手が、勝手に相手へ猶予をくれてやった!
ふざけるな。俺は勝ちたいんだ! 誰よりも、意地でも、この老いぼれに勝ちたいんだ!! なのに何で、体まで俺を裏切る!?
卓の下で、拳が白くなるまで握り潰した。骨が鳴った。それでも遅い。麻雀に「さっきの牌をもう一度」は存在しない。
「……そうか」
鴉山が、低く笑った。何かを確かめた者の声だった。
「今のを、見逃したか。若造。とことん業の深い病気よな」
老人の手が動いた。並びを組み替え、たった一巡で待ちを変える。そして俺が六年間で一度しか聞いたことのないほど深い声で、告げた。
「リーチじゃ。儂の最後の飛翔、見届けい!!」
千点棒が横に置かれる、その硬い音が合図だった。卓が燃えた。そこから先は、ほとんど嵐だった。俺は残り少ない巡目を全部使って逃げた。安全牌を探し、読みの糸を総動員して、通れそうな細い道を指先でなぞる。だが老人の待ちは、俺の逃げ道の真上を旋回し続けた。一枚切るたびに、翼の影が牌の上をよぎる。掌が汗で滑る。決め手を失った手牌が、巡を追うごとに重くなっていく。あの見逃した一枚の重さが、丸ごと乗っている。
降りるだけなら、まだできたかもしれない。だがオーラスで俺が完全に降り切れば、山との勝負に懸けた老人の火は宙ぶらりんのまま流局する。……違う。そんな理屈じゃない。俺はあの瞬間ですら、真っ向から受けて勝ちたかったんだ。逃げて拾う一位に、意地の置き場所なんてないから!
「――ツモ」
夜明けみたいな声だった。鴉山の掌の上で、引き寄せられた最後の一枚が✨と光った気がした。
「倍満じゃ」
点棒が動き、電光掲示の数字がひっくり返る。一万二千点のリードは跡形もなく消え、俺の名前は二着の位置に沈んだ。三回戦敗退。またこの景色だ。俺が育てた相手が頂へ駆け上がっていくのを、一番近い席で見上げる、この景色!
「な、何でよ……あそこまでリードしてたのに!! あんたまた、また……!」
ハルが観戦席の柵を掴んで叫んでいる。泣くのを堪えた声だった。俺は答えられなかった。今日のは言い訳のしようがない。喋らなかった。挑発もしなかった。それでも負けた。この体質は、口を塞いだ程度じゃ治らないところまで根を張っている。
立ち見の輪から拍手が湧いた。老名人の復活劇に、会場全体が酔っていた。その熱の真ん中で、俺だけが冷たい椅子に縫いつけられている。何度目だ、この温度差は。何度味わえば慣れるんだ。……慣れてたまるか!
「東雲陽」
卓を立った鴉山が、俺の真正面に立った。八年分若返った目が、真上から俺を射抜く。
「礼は言わん。儂を焚きつけたのはお前の病気であって、情けではないからのう。……だが覚えておけ。儂は今日、麻雀が怖くなくなった。八年ぶりにな」
そして老人は、声を一段落とした。
「その病気、儂には見覚えがある。相手の一番痛いところを撃ち抜いて、本気を引きずり出す打ち方。……お前の病気を最初に植えた男、鵜飼蓮司は生きている」
心臓が、一拍飛んだ。
六年前、全国青年戦の決勝で俺を完全に覚醒させて、そのまま煙みたいに消えた男。死んだとも生きてるとも誰も言わなかった、俺の師匠。
「何で、あんたがそれを」
「儂が知っておるのではない。……なあ、ママさん。そろそろ出てきたらどうじゃ」
観戦席の暗がりから、見慣れた着物の影が歩み出てきた。志乃さんだった。ねむの木のカウンターにいるはずの人が、何でここに。志乃さんは静かに俺の前まで来ると、帯の間から古びた封筒を抜き出した。角の擦り切れた、何年も誰かの手の中で眠っていた封筒。
「ごめんね、陽くん。ずっと隠してた。あの人に、あんたが今のあんたのままで会ったら、壊れると思ったから」
「志乃さん……」
「でも今日の対局を見て決めた。隠したままの方が、あんたを壊す」
差し出された封筒の表には、掠れた文字で山あいの住所が一行。裏には、忘れるはずもない癖の強い筆跡で、たった三文字。鵜飼、と。
「行っといで。あんたの病気の、根っこのところへ」
俺は封筒を受け取った。紙一枚のくせに、今日見逃したあの牌より、ずっと重かった。
この住所の先で待っているのは、十五歳の俺を叩き潰し、覚醒させ、かませ犬の宿命を植えつけたまま消えた張本人――六年間、一度だって忘れたことのない、俺の師匠だ。




