第6話 黒翼の記憶
半荘の折り返しで、卓の空気がまるごと入れ替わっていた。
対面に座る老人は、もう前局までの鴉山玄堂じゃない。安全牌を数えて震えていた指が、今は迷いなく真っ直ぐ牌山へ伸びる。捨て牌の川には、さっきまでの臆病な字牌の列が嘘みたいに、危険牌がずらりと並んでいた。
「ロン」
低く、短い宣言。俺の切った牌が卓の上で晒され、老人の手牌が静かに倒される。跳満。この半荘、三度目の直撃だった。
点棒を差し出す俺の指先が、じわりと熱い。序盤に築いた大差のリードは、もう半分も残っていなかった。
「どうした、覚醒屋」
鴉山が点棒を受け取りながら、口の端だけで笑う。
「儂を起こしたのはお主じゃろう。責任を取って、最後まで付き合え」
……ああ、そうだよ。起こしたのは俺だ。
前の対局、震える手で安全牌ばかり選ぶこの老人に、俺は言ってしまった。そんな麻雀で負けを惜しむな、と。言った瞬間から分かってた。これはいつもの、俺の病気だ。黙って勝てばよかった。臆病な老人のまま沈めてしまえば、俺は今ごろ勝ち抜けを決めてた。
なのに、口が勝手に動いた。いつもそうだ。相手の弱さを見た瞬間、俺の喉は俺を裏切る。
配牌を取る。悪くない。むしろいい。二巡目で両面の待ちが二つ、頭も固まって、最短で走り出せる形だ。俺は静かに息を吐いて、牌を並べ替えた。
勝てる。まだ点差はある。この手をまっすぐ育てて、でかい和了をあと一回決めれば、老人の追撃は届かない。
五巡目、鴉山の手が止まった。
止まった、と思った次の瞬間には、その指が手牌の中央を鷲掴みにして、叩きつけるように河へ放っていた。ドラの隣、誰がどう見ても危険な一枚。卓を囲む観戦の人垣が、小さくどよめく。
「……っ」
俺は思わず自分の手牌を見直した。あの牌、俺の待ちのすぐ隣だ。読まれてる。いや、読んだ上で、あえて刃の上に踏み込んでる。
昔の映像で観たことがある。八年前の名人戦。攻めて攻めて攻め潰す、黒い翼みたいな連続和了で相手の心ごとへし折る打ち手がいた。まだガキだった俺は、画面越しのその麻雀に呼吸を忘れて、気づいたら夜が明けてた。解説者が畏れ混じりに呼んだ異名——黒翼。
目の前の老人の背中に、今、その翼が生えかけている。
「リーチ」
鴉山の千点棒が、澄んだ音を立てて卓に置かれた。
六巡目の先制リーチ。臆病者の麻雀じゃない。俺は自分の手を見る。あと一歩でテンパイ。押すか、引くか。
押した。危険牌を、指先が痺れるのを感じながら河へ置く。通った。次巡も押した。通った。心臓が耳の奥で鳴ってる。これだ。この痺れるような読み合いを、さっきまでの鴉山からは一度も感じなかった。
「ツモ」
だが先に届いたのは老人の右手のほうだった。引き当てた牌が高く掲げられ、卓の照明を弾いて光る✨。裏ドラが乗って、また跳満。
「うそでしょ……!?」
悲鳴を上げたのはハルだった。観戦席の最前列で、身を乗り出して卓を睨んでいる。その隣では雛が両手を握りしめ、祈るように俺の河を見つめていた。
休憩の合図が入って、俺が席を立つなり、ハルが突進してきた。
「ねえ、あんた分かってるの!? リード、もうほとんどないんだよ!?」
「見りゃ分かる」
「分かってない!! あのおじいちゃん、一局ごとに強くなってる! あんたが余計なこと言ったせいで!」
ぐうの音も出ない。後ろから追いついてきた雛が、遠慮がちに、でもはっきりと言った。
「東雲さん。鴉山さんの捨て牌、前半とは思想が別人です。……わたしの時と、同じです。あなたの言葉が、眠っていたものを起こしました」
お前が言うと重いんだよ。俺に孵化させられた張本人が言うと。
ハルは俺の袖を掴んで、絞り出すみたいに言った。
「お願いだから、もう何も言わないで負けさせてよ!!」
負けさせてよ、って日本語は変だろ——と茶化しかけて、やめた。こいつは本気だ。柴崎戦で俺が散るのを見て、雛戦で俺が散るのを見て、誰よりも悔しがったのはこいつだった。俺の対局のたびに、こいつは俺の代わりに叫んで、俺の代わりに泣きそうになってる。
だからこそ、俺は言った。
「弱いまま倒して勝ったことになるか!?」
ハルの目が見開かれる。
「じいさんは八年間、負けるのが怖くて翼を畳んでた。それを起こしちまったのは俺の病気だ。そこは認める。……でもな、起きちまった以上、あの黒翼ごと叩き落とさなきゃ、俺の勝ちじゃねえんだよ!!」
「……あんた、ほんっとに馬鹿だ」
ハルは袖を離して、うつむいて、それから勢いよく顔を上げた。目の縁が赤い。
「馬鹿だけど……その馬鹿が勝つとこ、あたしは見たいんだからね!! 絶対勝ちなさいよ!!」
おう、と俺は短く答えた。それ以上喋ると、声が震えそうだった。雛が小さく頭を下げて、囁くように「ご武運を」と言った。恩人で、超えるべき壁——そう俺を呼ぶようになった少女の目は、もう怯えていなかった。俺が孵したこの目に、無様な散り様は見せられない。
後半戦。卓に戻った鴉山は、静かに目を閉じていた。再び開かれた時、そこに座っていたのはもう、落ちぶれた老人じゃなかった。
東場から、翼が羽ばたいた。
鴉山が和了る。次の局も和了る。千点の安手から跳満まで、打点なんてお構いなしに、とにかく連続で和了り続ける。相手に一巡たりとも呼吸をさせない、息の根を止めるための連荘。観戦席の年配の記者が、掠れた声で呟くのが聞こえた。
「黒翼じゃ……八年前の、あの黒翼が戻ってきよった……」
止めなきゃならない。連荘は親が流れれば終わる。俺は形を捨てて速度に走った。安い手でいい、一回この老人の和了を断ち切れば流れは変わる。二つ鳴いて、テンパイまで最短で駆け上がる。
だが鴉山は、俺の鳴きを見た瞬間に打ち筋を変えた。俺が欲しい牌だけが、ぴたりと河に出てこなくなる。絞られてる。俺の狙いを、手牌も見ずに読み切ってやがる。挙げ句、俺が止まっている間に自分だけ手を仕上げて、また「ツモ」だ。
畜生。強い。強すぎて、笑えてくる。
そして、その時だった。俺の喉の奥で、聞き覚えのある熱がせり上がってきたのは。
——あんた、まだ八年前に届いてないぞ。あの頃の黒翼は、もっと。
言いかけた。この期に及んで、俺の口は、逆転されてなお相手を煽って、もっと高くへ飛ばそうとしていた。冗談じゃない! 俺は奥歯を噛み締めて、その言葉を喉の奥へ押し戻した。口の中に、鉄の味が薄く滲む。これ以上こいつを強くしてたまるか。今でさえ手一杯なんだ。俺は勝ちたいんだ。誰よりも、意地でも、この老人に勝ちたいんだ!!
四連続。五連続。俺のリードは削られ、並ばれ、ついに——逆転された。
なのに、なんでだろうな。俺の口元は、笑ってやがった。
怖い。点差が溶けていくのは、内臓が冷えるほど怖い。負けたくない。意地でも勝ちたい。卓の下で、俺は膝の上の拳を握り潰してる。爪が手のひらに食い込んで、その痛みだけが俺を卓に繋ぎ止めてる。なのに同時に、目の前で伝説が蘇っていくこの瞬間に、背筋が痺れて仕方ないんだ。俺が起こした翼が、全力で俺を殺しに来てる。これ以上の勝負が、どこにある!?
卓上の点棒の山は、いつの間にか綺麗に立場を入れ替えていた。観戦席は静まり返り、誰もが息を詰めてこの卓を見ている。逃した勝ちを数えたら、きりがない。柴崎の時も、雛の時もそうだった。でも今この瞬間、俺の胸にあるのは後悔じゃない。腹の底で燃えてる、まだ終わってねえだろ、という一点だけだ。
「次は、お主の親じゃな」
鴉山が山を積みながら、ふいに言った。八年ぶんの錆が剥がれ落ちた声だった。
「儂はその親を、真正面から潰しに行く。逃げも隠れもせん。八年前の儂のまま、全力でお主を叩き潰す。……それが、儂を起こした男への礼じゃ」
「……上等だよ」
声が掠れないように、腹の底から押し出した。観戦席でハルが両手を口に当てて、雛が背筋を伸ばして、息を呑むのが視界の端に見える。
俺は牌を握った。指先に伝わる、ひやりとした重さ。六年前、鵜飼蓮司に叩き潰されて雀士になったあの夜から、俺はずっとこの重さと付き合ってきた。分かってる。俺の病気は治ってない。決め手の瞬間、また口が勝手に動くかもしれない。決め手の牌が、また鉛みたいに重くなるかもしれない。それでも。
次の一局——俺の親で、この黒い翼を真正面から撃ち落とす!!




