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第5話 翼を畳んだ名人

対局室に入った瞬間、空気が枯れているのが分かった。

 鳴神杯二回戦。正面の席に、その老人はもう座っていた。鴉山玄堂。八年前まで名人位に君臨し、雀壇を焼き尽くす攻めで「黒翼」と恐れられた男。雛との決着がついたあの夜、俺の背中に「次は儂を蘇らせてみろ、覚醒屋」と言い捨てていった張本人だ。

 「来たか、若いの」

 声は、古い木戸みたいに軋んでいた。記録映像で見た鴉山は、もっと嗄れ声で吼える男だったはずだ。

 「逃げずに来ただけ、褒めてやろう」

 「あんたを蘇らせに来たんじゃない。潰しに来た」

 俺は椅子を引いた。観戦席の最前列で、ハルが身を乗り出す。

 「陽! 今日は一言も喋っちゃだめだからね! 挨拶も禁止! ……もう手遅れだけど!」

 うるせえ。だが、正しい。雛との三日間で俺は骨の髄まで思い知ったはずだ。喋れば育てる。黙っても、鋭すぎる捨て牌は教材になる。だから今日は決めてきた。喋らない。そして、読ませる牌すら切らない。教材にならない、面白くもない麻雀で、ただ淡々と勝つ。

 ハルの隣には、制服姿の雛が静かに座っていた。目が合うと、深々と頭を下げてくる。

 「東雲さん。今日の対局、勉強させていただきます」

 ……恩人扱いはやめろ。俺はあの日、お前に負けたんだ。孵ったお前は眩しかったけどな。

 サイコロが回り、山が積まれ、静かに東一局が始まった。

 そして、三局も回らないうちに、俺は妙な息苦しさを覚え始めていた。

 鴉山が、打たないのだ。

 いや、牌は切っている。だがそれは、麻雀じゃなかった。俺がリーチをかける。鴉山は即座に手を崩し、安全牌だけを並べて局が流れるのを待つ。俺が仕掛ける。鴉山は下りる。誰も攻めていない平場ですら、危険の芽が一枚見えただけで手を曲げる。挑戦状を叩きつけてきた老雄の打牌は、徹頭徹尾、負けないためだけの牌だった。

 「これが……黒翼?」

 ハルの呟きが観戦席から落ちてくる。記者連中もざわついていた。八年前、鴉山の連続和了は一晩で三人のプロを廃業に追い込んだと言われる。危険牌を真っ向から切り裂き、和了の形が見えた瞬間にはもう誰にも止められない——そういう伝説だけを、俺も知っている。

 目の前の老人に、その面影は一欠片もなかった。

 「落ちぶれたもんだな」「あれが元名人かよ」——観戦席の後ろの方から、囁きとも嘲りともつかない声が漏れてくる。鴉山の耳にも届いているはずだった。老人は表情ひとつ動かさず、ただ安全牌を摘まみ、置く。その指先だけが、置くたびに小さく揺れた。

 東三局には、こんな場面すらあった。鴉山の河と手出しの気配から、俺には奴が張っているのが読めていた。おそらく待ちも悪くない。なのに俺がたった一枚、圧をかける牌を強めに切った瞬間、鴉山は自分から聴牌を崩したのだ。和了へ伸ばした手を、自分の恐怖で引っ込めた。卓を挟んでいて、これほど寒気のする降参を俺は見たことがなかった。

 東四局、俺の親番。俺は淡々と加点した。読み合いにすらならない。相手が受けしか打たないなら、こちらは速度だけで殴ればいい。二千点、三千九百点、五千八百点。点棒が音もなく俺の側へ積み上がっていく。連荘のたび、観戦席の空気が白けていくのが分かった。誰も、こんな一方的な狩りを見に来たんじゃない。

 南入する頃には、点差は倍以上に開いていた。

 勝てる。今日も、勝てる展開だ。喋らなければいい。ただ、それだけでいい。

 なのに——胸の奥が、ざらついて仕方なかった。

 鴉山の手が、震えているのだ。

 牌を持つたび、捨てるたび、あの節くれ立った指先が小さく揺れる。寒さじゃない。老いのせいでもない。俺には分かる。嫌というほど分かる。あれは、負けることに怯えている人間の震えだ。

 八年前に名人位から陥落して、そこから続いた連敗。老いた読みで危険牌を切って、放銃して、嗤われて。この老人はいつからか、攻めることそのものを自分に禁じたんだ。あの雀壇を焼いた翼を、自分の手で畳んだんだ。

 ……関係ない。俺は手牌を睨みつけた。相手が何に怯えていようが、俺の知ったことか。俺は勝ちに来た。柴崎に散らされ、雛に散らされ、それでも意地でも勝ちたくて、ここに座ってる。目の前の飯を、今日こそ黙って食う。

 南二局。俺の手に、久しぶりに大物の種が入った。

 配牌からするすると伸びて、あっという間にリーチ。待ちは薄いが、打点は倍満クラス。ツモれば点差はほぼ決定的になる。指先が熱い。この一局で、事実上終わらせる。

 鴉山は当然のようにベタ下りに入った。手牌を六枚も崩し、通った牌だけをなぞるように切る。震える指が、安全牌の待避所を確かめるように何度も卓上を往復する。

 その時だった。鴉山がふっと目を伏せ、口の中だけで呟いたのだ。

 「……これでいい。これなら、負けは……小さく済む」

 瞬間、頭の中で何かが灼けた。

 まただ、と思った。決め手を前にすると牌が鉛みたいに重くなる、いつもの感覚——いや、違う。今日のこれは牌じゃない。喉だ。腹の底から喉元へ、言葉が勝手にせり上がってくる。言うな。言うな。雛戦を思い出せ。ハルの顔を見ろ。俺は奥歯を噛んだ。噛んで、噛んで——駄目だった。

 「——ふざけるな」

 卓上に、自分の声が落ちた。

 「そんな麻雀で、負けを惜しむな!!」

 対局室が凍りついた。ハルが観戦席で頭を抱えるのが視界の端に映る。それでも、口はもう止まらなかった。

 「あんたの牌は八年前、三人のプロを叩き折ったんだろ! 雀壇を焼いたんだろ! その手はどこへいった! 負けを小さくまとめて、点棒を守って、それで名人のつもりか! あんたが畳んでるのは翼じゃねえ、麻雀そのものだ!!」

 言い切ってから、すうっと血の気が引いた。

 やっちまった。また、やっちまった——!

 鴉山は、しばらく石のように動かなかった。伏せた目。震える指。長い、長い沈黙。

 やがて。

 「……く、く」

 枯れた喉から、低い笑いが漏れた。

 「若造に、言われてしもうたわ」

 鴉山が顔を上げた。その目を見て、俺は息を呑んだ。さっきまで濁っていた瞳の奥に、鈍い、けれど確かな火が点っている。

 「儂は八年、負けん麻雀を打ってきた。負けんことだけを考えて、それでも負け続けた。惜しんで、縮こまって、それでも卓にだけはしがみついてきた」

 節くれた指が、崩していた手牌を一枚、また一枚と拾い直していく。

 「じゃがのう、覚醒屋。お主の言う通りじゃ。惜しむような負け方をするくらいなら——」

 次に牌を掴んだとき、その指はもう震えていなかった。

 鴉山は俺のリーチに対して、場に一枚も見えていない生牌のド真ん中——誰が見ても危険牌のそれを、卓が鳴るほど強く叩きつけた。

 「翼を広げて、堕ちるわ!!」

 通った。俺の待ちを紙一重で外して、通った。読み切ったのか、ただの豪運か——違う。あの打ち筋は知っている。映像で何度も見た、八年前の黒翼の、あの容赦ない第一打だ✨

 そこから先は、別人だった。鴉山は俺のリーチが立つ卓上で真っ向から手を進め、二巡後、確信に満ちた手つきで跳満をツモり上げた。八年分の枷が砕け散る音が、聞こえた気がした。

 「……ほう。ほう、ほう! これじゃ。これじゃったわ、麻雀というものは!」

 点棒を差し出す俺の手が、わずかに熱を持っていた。悔しさだけじゃない。認めたくないが、心臓が跳ねている。さっきまで白けていた対局室の空気が、一気に張り詰めたのが肌で分かった。記者連中が身を乗り出し、嘲っていた連中が口をつぐむ。八年前の雀壇を知る誰かが、掠れた声で「黒翼だ」と呟いた。

 続く南三局も、鴉山は下りなかった。俺の仕掛けに真っ向から追いつき、危険牌を三枚続けて押し切って、満貫。積み上げた点差が、目に見えて削られていく。それでも老人の顔に焦りはなく、ただ一局ごとに若返っていくようだった。背筋が伸びる。声に芯が戻る。指の震えは、もうどこにもなかった。

 観戦席のハルが、突っ伏したまま呻いた。

 「あんた……また育ててる……! しかも今度は、伝説を掘り起こしてるじゃない!?」

 隣の雛が、恐ろしく真剣な顔で呟くのが聞こえた。

 「……これが、わたしを孵した人の麻雀です」

 やめろ。誉めるな。返す言葉もなかった。だが卓の下で、俺は拳を握り締めた。まだ点差はある。まだ俺が大きく前にいる。上等だ。翼を取り戻したってのなら、その翼ごと叩き堕として勝つ。相手が最強で、それでも勝ってこそ、意地ってもんだろうが!

 「次局、行くぞ若いの——いや」

 鴉山は牌を掴み、八年ぶりの獰猛な笑みを浮かべた。

 「儂を起こしたこと、その身で後悔させてやろう」

 山の向こうで、翼を畳んでいた老王が今、ゆっくりと目を覚まし始めていた。

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