第4話 孵化の代償
オーラス、南四局。点棒は俺が二万一千、天城雛が二万六千。捲るには五千二百以上——条件は頭に入っている。入っているのに、俺は最短の道を見ていなかった。
前局の終わり、雛は言った。「……次の一打で、あなたの先へ行きます」と。敬語のくせに、あれは宣戦布告だった。俺の捨て牌から俺の思考を学び尽くした確率の申し子が、殻の内側から嘴で一点を突きはじめた音だった。
だから俺は決めていた。喋らない。それは前局から貫いている。だが昨日、それだけじゃ足りないと思い知った。黙っていても、鋭すぎる手順そのものが教材になる。正解を打てば打つほど、こいつは俺の正解を吸って育つ。
なら——鈍らせるしかない。
配牌を開いた瞬間、五千二百への最短ルートが見えた。二つ鳴けば三巡で聴牌、捲り条件を満たす綺麗な形。喉が鳴るほど旨い手だった。
俺はそれを、自分の手で潰した。
最初の一鳴きを見送る。次も見送る。代わりに、雛の現物にも安全圏にもならない中途半端な牌だけを選んで河に並べていく。読める手順じゃない。学べる正解じゃない。ただ相手の選択肢を一本ずつ折っていく、汚れた打ち回し。
「……え、ちょっと待って」
観戦席のハルが身を乗り出す気配がした。「あんた、鳴かないの!? 今の絶対鳴く場面でしょ!?」
鳴かねえよ。俺は心の中でだけ答える。綺麗に勝とうとするから育てちまうんだ。最短を捨てろ。手本になるな。教材になるな。今日の俺は、教師じゃない。ただの壁だ。
雛の指が、初めて空中で止まった。
ツモった牌を持ったまま、二秒。彼女の目が俺の河を三度往復する。読めないのだ。俺の捨て牌に文法がない。確率の外どころか、意味の外。数字で育った打ち手にとって、意味のない河は暗闇と同じだ。
効いてる。俺は卓の下で拳を握った。このまま暗闇に沈めて、何も教えず、何も言わず、ただ点棒だけ削り取って終わらせる。それでいい。それが勝ちだ。誰が何と言おうと、勝ちは勝ちだ!
牌を切るたび、指先が河の羅紗を掠める。ツモ山に伸びる腕の付け根で、心臓が一打ごとに重くなっていくのがわかる。静かな卓ほど音がでかい。牌の触れ合う硬い音、点棒の乾いた音、雛の浅い呼吸。全部が耳の奥で増幅されて、俺は自分がどれだけこの勝負に飢えているかを思い知らされていた。
中盤、俺の手はいつの間にか張っていた。潰したはずの手が、鳴かずに引きだけで曲がりくねって聴牌まで届いていた。打点は安い。だが直撃なら条件を満たす。笑えるだろ。最短を捨てた道の先に、ちゃんと待ちが立ってる。麻雀ってやつは、たまにこういう悪戯をする。
雛の河が乱れはじめた。序盤の整然とした並びが崩れ、迷いの跡が焦げ目みたいに残っていく。あの宣言はどこへ行った。先へ行くんじゃなかったのか。ほら、これが数字の外だ。地図のない場所だ。怖いだろう。
——怖いだろう、じゃねえ。
俺は奥歯を噛んだ。今、俺は雛の心細さを正確になぞっていた。相手の恐怖の輪郭を、手に取るように感じ取っていた。それはこの体質の入り口だ。相手の弱さが見える。見えたら最後、口が勝手にそこへ届く言葉を探しはじめる。
黙れ。黙れ黙れ黙れ。俺は舌の根を意志で縛った。今日は言わせない。今日だけは、絶対に。
終盤、十六巡目。卓が静まり返った。
雛が聴牌した。河と挙動でわかる。しかも高い。満貫はある。彼女の勝利条件はツモか俺からの直撃。そして俺の手も張ったまま。撃ち合いだ。次に危険牌を掴んだ方が、先に地獄を見る。
撃ち合いの数巡は、時間の流れ方が違う。一牌ツモるたびに寿命を賭け金に積むような感覚。俺の指はツモ山の牌を撫で、その冷たさで自分の掌が汗ばんでいることを知る。ハルはもう声を出さなかった。観戦席の縁を両手で掴んで、祈るみたいに卓を睨んでいる。
雛がツモった。
牌を見た瞬間、彼女の肩が跳ねた。
わかった。掴んだのだ。俺の当たり牌を。そしてあいつの読みは正しくその危険を告げている。切れば俺に直撃されるかもしれない。抱えれば自分の和了が消える。確率は「切るな」と言っている。数字は撤退を命じている。昨日までの天城雛なら、迷わず降りていた。
彼女の指が牌の角にかかったまま、震えた。
顔から血の気が引いて、それでも目だけは河を睨んでいる。確率の神様と、生まれたての勇気が、細い体の中で殴り合っているのが見えた。十秒。二十秒。卓の照明の低い唸りだけが響く。
降りろ。俺は祈った。降りてくれ。そうすれば俺がツモるかもしれない。流局でもいい。お前が降りてさえくれれば、俺は勝てるんだ。頼むから、そのまま、ひよこのままで——
——ひよこのままで、いいわけがあるか。
心臓が跳ねた。駄目だ。浮かぶな。その言葉だけは浮かべるな! 俺は唇を噛んだ。噛んで、縛って、それでも駄目だった。六年間ずっとそうだったように、俺の口は、俺の意地を裏切る瞬間のためだけに開く。
「そこを切れなきゃ——お前は一生ひよこのままだ!!」
言った。言っちまった!
ハルが観戦席で頭を抱えるのが視界の端に見えた。声にならない悲鳴が聞こえた気がした。
雛の震えが、止まった。
彼女はゆっくり顔を上げ、俺を見た。怯えの膜が剥がれた目の奥で、何かが孵る音がした。恐怖は消えていない。消えないまま、その全部を指先に乗せて——雛は牌を、河へ叩きつけた。
「……ロン、です」
俺の声じゃない。俺の河に、彼女の当たり牌が沈んでいた。二巡前に俺が安全だと計算して置いた牌。彼女は待ちを変えていたのだ。俺の手順を逆算して、俺の「安全」の裏側に罠を張って。恐怖ごと切ったあの一打は、攻めながら俺の直撃条件を外す、確率と勇気の両方でしか辿り着けない一手だった。
倒された手牌が、卓の照明を受けて光った✨。裏まで乗って跳満。逆転どころじゃない。完敗だった。
「……終局。勝者、天城雛」
立会人の声が遠かった。周囲の卓から拍手が湧き、誰かが「また覚醒屋がやった」と囁くのが聞こえた。畏怖なのか嘲りなのか、もう区別する気力もなかった。俺は自分の手牌を見下ろした。安く、汚く、それでも確かに勝ちに届くはずだった手。卓の下で、拳が白くなるまで震えていた。悔しい。内臓が捻れるほど悔しい! 勝てたんだ。黙ってさえいれば。最後の最後、あの一言さえ飲み込めていれば!
なのに——顔を上げた先で、涙をぼろぼろ零しながら背筋を伸ばしている雛を見た瞬間、悔しさと同じ深さの場所が、勝手に熱くなった。
「東雲さん」雛は袖で目元を拭いもせず、深く頭を下げた。「わたし、怖いままで打てました。数字の外で、初めて自分の意志で牌を切りました。……あなたは恩人です。そして」
顔を上げた彼女の目は、もうひよこのものじゃなかった。
「超えるべき、壁です。次にお会いする日まで、もっと強くなります」
勝手にしろ、と言おうとして、声が掠れた。代わりに俺は片手を挙げた。それが精一杯だった。畜生。いい打ち手になりやがって。俺が育てたんじゃない。お前が勝手に孵ったんだ。……そういうことに、しておいてくれ。
「あんたはっ、ほんとにもう……!」ハルが駆け寄ってきて、俺の背中を思い切り叩いた。「なんで言うのよ! 黙ってれば勝ってたのに! なんで毎回毎回っ……悔しくないの!?」
「悔しいに決まってんだろ」
俺は低く言った。ハルが息を呑む。悔しい。焼け付くほど悔しい。それでも散り際のあの一打が美しかったことを、俺の中の何かが誇ってしまっている。この矛盾ごと、俺は「覚醒屋」なんだろう。
その時、背後で、しわがれた笑い声がした。
「くく……いや、実にいいものを見た」
振り返ると、老人が立っていた。枯れ木みたいに痩せて、それでも肩幅だけが往年の何かを覚えている、そんな立ち姿。俺は知っていた。八年前の名人・鴉山玄堂。今は安全牌しか切れなくなったと囁かれる、翼を畳んだ老王。
鴉山は懐から一枚の対戦表を取り出し、俺の卓の縁に、音を立てて置いた。鳴神杯、次戦の組み合わせ。俺の名の隣に、鴉山玄堂の名が刷られていた。
「雛を孵し、儂の枯れた血まで沸かせおって。……のう、覚醒屋よ」
老人の目の奥で、灰の下の熾火がちらりと覗いた。
「次は儂を蘇らせてみろ」
冗談じゃねえ、と吐き捨てたはずの俺の指が、その対戦表を確かに掴んでいた。




