第3話 教えるな、打て
喋らなければ、勝てる。
昨日の夜、雀荘ねむの木のカウンターで、俺はコーラを一気に飲み干しながらそう結論した。口が勝手に動くなら、動く前に噛み殺せばいい。単純な話だ。餓えた雛に餌をやるから翼が生える。何もやらなければ、天城雛は確率の檻の中で震えている、まだ飛べない打ち手のままだ。
志乃さんは何も聞かずにグラスへおかわりを注いで、一言だけ寄越した。
「無理はしないでね、陽くん」
無理をするに決まってる。俺は意地でも勝ちたいんだ。地下雀壇で柴崎に喰われたあの夜から、ずっと喉の奥で燻ってる火がある。今度こそ、俺の名前が勝者として呼ばれる番だ。
鳴神杯初戦、続行二日目。
対局室の空気は、昨日より三度は低く感じた。観戦席のひそひそ声が背中に刺さる。——覚醒屋だ。また誰かを化けさせて散る気か。うるせえ。今日の俺は石だ。石は喋らない。
上座に着いた雛は、今日も背筋を定規で引いたみたいにまっすぐだった。伏せた睫毛の下で、視線だけが牌を数えている。昨日、俺の馬鹿な口が「数字の外に逃げ道があるぞ」と教えちまった相手。あの一言で俺の待ちを正確に止めてみせた、恐ろしく出来のいい生徒。
もう二度と教えない。
「よろしくお願いします」
雛が敬語で頭を下げる。俺は無言で頷いた。返事すらしない。徹底的にやる。
開局。山が積まれ、牌を混ぜる音がいつもより大きく響いた。
東場、俺は静かに削り取った。二千、三千九百。派手さはいらない。昨日失った点棒を、無言のまま淡々と回収していく。読みは冴えていた。雛の手出しとツモ切りの癖が透けて見える。何もしなければ勝てる。俺は本来、そういう打ち手なんだ。
東三局には、雛の即リーチを喰らってなお、危険牌を三枚抱えたまま無傷で流局まで泳ぎ切った。心拍は静かだった。指先も冷えていた。卓を挟んだ向こうで、雛の眉がほんのわずかに動いたのを、俺は見なかったことにした。あれは悔しがる顔じゃない。答え合わせをしている顔だった。
だが——南場に入った瞬間、異変に気づいた。
雛の視線が、俺の河に張り付いている。
和了った手でも、山でも、自分の手牌でもない。俺の捨て牌だけを、一枚切るたび、レンズみたいな目で追っている。何かを書き留めるように、瞬きの回数まで惜しんで。
嫌な汗が背中を伝った。
南一局、それは形になって現れた。俺が不要牌を外から順に整理し、危険牌を早めに処理して、安全の通り道を作っておく——六年かけて骨に刻んだ手順。その手順を、雛が半巡遅れでなぞり始めたのだ。鏡写しだった。俺の河と雛の河が、双子みたいに並んでいく。
観戦席がざわついた。誰かが息を呑む音まで聞こえた。当然だ。公式戦の卓で、女子高生が最高峰の手順をその場で写し取っていくなんて、化け物じみた光景なんだから。
俺の麻雀は、たぶん綺麗すぎる。
捨てる順番。処理の呼吸。引き際の角度。手筋の一枚一枚に理屈が刻まれていて、喋らなくても、河に授業が並んでいく。声に出さない講義を、雛は最前列で受けていた。
これは、あの人の手順だ。六年前、俺という野良犬を叩き潰して拾った男が、骨の髄まで打ち込んできた型。俺の河は、俺一人のものですらない。だからこそ濃い。だからこそ、教材として一級品すぎる。喋ることを封じた俺の背中から、それでも授業は漏れ続けていた。
南二局。俺は先制の親リーチを打った。待ちは山に三枚、生きている確信もあった。昨日までの雛なら、期待値が押しと出れば真っ直ぐ来る。数字が押せと言えば押す。それしかできない打ち手だったからだ。
雛は、押してこなかった。
俺のリーチ宣言牌と、その二巡前の手出しを交互に見て、小さく息を吸い、手牌を伏せるように守りへ回った。完璧な見切りだった。数字じゃない。俺の河の呼吸を読んだ見切りだった。
流局。裏を見せずに手を伏せながら、俺は奥歯を噛んだ。
——今の見切り、誰に教わった?
俺だ。俺の捨て牌だ。喋ってすらいないのに!
休憩。廊下の自販機の前で、ハルが仁王立ちしていた。
「ねえ、気づいてる!?」
「……何がだよ」
「あの子、あんたの河をノートみたいに読んでる! 一枚切るたび、目の奥でページめくってるの! あんた、黙ってても相手を育ててるじゃない!?」
缶を持つ手が止まった。
わかってる。言われなくてもわかってた。だから誰にも言われたくなかったんだ!
「喋らなきゃいいって、そういう問題じゃなかったのよ。あんたの麻雀、上手すぎて全部教材なの! どうすんのよ!!」
「どうするも何も」
打つしかねえだろ。教えないために下手に打つのか? 手を抜いて勝って、それが勝ちか? そんなもん、勝っても負けても麻雀への侮辱だ。相手の麻雀への、雛への侮辱だ。
「……打つだけだ」
「あーもう! そういうとこ! そういうとこよ!!」
ハルは缶コーヒーを一気に呷って、それでも最後は小さく、絞り出すみたいに言った。
「勝ってよね。今度こそ、あんたが勝つとこ、見せてよね」
ああ。俺だって、喉から手が出るほどそれが見たいんだよ。
卓に戻る。南三局、俺の仕掛けに雛が正面から追いついてきた。速度が違う。昨日までの雛は、確率が確定するまで動けなかった。数字が答えをくれるまで、指一本動かせなかった。今の雛は、俺の捨て牌から不確定の穴を埋めて、半歩先に踏み込んでくる。教材が優秀すぎるんだ。畜生、感心してる場合か!
牌を切る音が変わっていた。昨日の雛の打牌は、電卓を叩くみたいに均質で、迷いも熱もなかった。今は違う。一枚ごとに強弱がある。踏み込む牌は鋭く、様子を見る牌は柔らかい。音に感情が乗り始めている。孵化が、もう指先まで来ている。
それでも俺は削った。理屈と経験の全部で半歩の距離を保ち、点棒を守り抜いた。石のまま。無言のまま。口の中では、何十回も言葉が生まれては死んだ。いい見切りだ。今のは違う、そこは押せ。もっと速く——出かかるたびに、舌の根で握り潰す。教えるな。教えるな。打て。ただ打て!
迎えた南四局。点差は俺がわずかに上。配牌も悪くない。六巡目には好形の一向聴。取り切れば、明日の決着局に王手をかけられる。
だから思い出すな、と自分に言い聞かせた。地下雀壇の決勝。あと一枚切れば優勝だった夜。あの時も点差は俺が上で、あの時も手は完璧で、そして俺の口が全部を台無しにした。柴崎の目に火が入る瞬間を、俺は世界で一番近い席で見た。今日は違う。口は縫った。石になった。なら、今度こそ——。
七巡目、決め手に近い一枚を引いた。
その牌が——重い。
指先に吸い付いて、鉛みたいに重い。知ってる感覚だ。決定局のたびに俺を裏切ってきた、あの重さだ。心拍が跳ねる。掌に汗が滲んで、卓の緑がやけに鮮やかに見える。対局室の空調の音、観戦席の衣擦れ、雛の呼吸——全部が遠のいて、この一枚の重さだけが世界に残る。切れば前に進む。ただそれだけの一枚が、雛の未来を照らす一枚に見えて、指が勝手にためらう。口を封じたら、今度は手が教えたがってるのか? ふざけるな。俺は勝ちたいんだ。誰よりも、意地でも、勝ちたいんだ!!
力ずくで河に叩きつけた。パチン、と乾いた音が対局室に響く。指先がまだ痺れている。それでも切った。今日の俺は、最後まで石でいられた——はずだった。
その瞬間だった。
雛が、初めて自分から俺の目を見た。
伏せられていた睫毛が上がって、レンズみたいだった瞳の奥に、小さな火が灯っているのが見えた✨。怯えじゃない。計算でもない。あれは——楽しんでいる目だ。
「東雲さん」
声が震えていた。恐怖じゃない。武者震いだ。
「あなたの捨て牌を、六巡、遡りました。手順を逆から辿れば、あなたの手が見えます。……あなたが教えてくれたんです。数字の外の読み方を。昨日は言葉で。今日は、背中で」
やめろ。それ以上言うな。頼むから、そこで止まってくれ。
「……次の一打で、あなたの先へ行きます」
静かな宣言だった。挑戦状でもあった。確率の檻の扉に手をかけた雛が、生まれて初めて自分の翼で告げる、飛翔の予告だった。
卓の下で、俺は拳を握り潰す。爪が掌に喰い込んで、熱かった。誇らしくて、腹が立って、どうしようもなく熱かった。観戦席の最前列で、ハルが両手で顔を覆っているのが視界の端に見えた。指の隙間から、それでも目だけは卓を離さないでいる。いいだろう、来い。だが忘れるな。俺は覚醒屋である前に、ただの負けず嫌いだ。お前が先へ行くと言うなら、俺はその先で待ち構えてやる!!
山に残る牌はあとわずか——この初戦の全てを賭けた決着局が、次の配牌とともに始まろうとしていた。




