第2話 雛はまだ飛べない
鳴神杯の会場は、地下雀壇とは空気の質がまるで違った。
磨き上げられた床。整然と並ぶ全自動卓。天井の照明は白く均一で、影の落ち方まで管理されている。賞金と怒号で煮えていた地下の熱とは正反対の、静かで冷たい戦場だった。
俺はポケットの中の招待状に指で触れた。柴崎蓮に敗れた夜、握り潰しかけて、結局握りしめたままだった一枚。角はもう、俺の手汗でよれている。
「ちょっと、聞いてる? 東雲陽!」
隣を歩くハルが、制服の袖を引っ張った。
「今日の相手、調べてきたから。天城雛。女子高生。予選全勝。しかも全部、倍満以下の地味な和了だけで勝ち上がってる」
「……効率の塊か」
「そう。確率計算だけで打つ子だって有名。感情ゼロ。ミスもゼロ。機械って呼ばれてる」
ハルは俺の前に回り込み、人差し指を突きつけた。
「言っとくけど、あんたなら普通に勝てる相手なの! だから今日は最後まで黙ってなさいよ!? 一言でも喋ったら承知しないから!」
「うるせえ。分かってる」
分かってる。分かってるんだ、そんなことは。
柴崎の卓で、俺の口が勝手に何を叫んだか。あの逆転の一打が、誰の言葉で生まれたか。忘れられるはずがない。
対局卓に着くと、その少女はもう座っていた。
天城雛。制服の上に薄いカーディガン。背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、卓上の一点だけを見ている。
「よろしくお願いします」
声も、お辞儀の角度も、誤差がなかった。
「……ああ。よろしく」
サイコロが回り、牌が積まれ、静かに東一局が始まった。
雛の麻雀は、噂通りの精密機械だった。ツモの動きに一切の淀みがない。捨て牌は常に理論上の最適解。危険牌は数巡先まで計算して抱え、待ちは場に残った枚数が最も多いところへ寄せてくる。強い。アマの卓なら、これだけで九割の相手は磨り潰されるだろう。
だが。
俺は手牌の中で、静かに刃を研いだ。
確率で打つ打ち手には、確率の急所がある。数字が「切れ」と告げる牌を、数字を信じて必ず切る。なら、その数字ごと騙せばいい。
俺は捨て牌に嘘を混ぜた。読みの通り道に、わざと逆向きの足跡を並べていく。雛の計算は正確だからこそ、正確に間違った答えへ滑り落ちる。
東二局、俺は捨て牌で罠の道を敷き終え、静かにリーチを宣言した。雛は三秒だけ計算し、理論上もっとも安全なはずの一枚を迷いなく切った。その最適解が、俺の待ちのど真ん中に突き刺さった。ロン。裏が乗って満貫。雛の瞳が、初めて答え合わせに失敗した子供のように瞬いた。
東三局、雛が寄せた多面待ちの、その最後の一枚を俺が先に手の内へ固めて潰した。彼女の理論値は音もなく空振りし、代わりに俺のツモが軽く卓を鳴らした。牌を倒すたび、指先に確かな手応えが返ってくる。読みが通る。嘘が効く。体が軽い。
南場に入る頃、点棒の山は俺の側に大きく傾いていた。
観戦席がかすかにざわついた。
「……あれが例の、地下の覚醒屋か」
「相手を化けさせて自分が負けるって噂の? でも今日は普通に強えじゃねえか」
くぐもった囁きは、耳のいい俺には全部届いてしまう。覚醒屋。畏怖と嘲りが半々に混じった、反吐が出る二つ名。うるせえ、と胸の内で吐き捨てた。今日でその名は返上する。俺は誰も育てない。ただ勝って、ただ卓を降りる。それだけをやりに来たんだ。
「いいよいいよ、その調子!」
観戦席のハルが小さく拳を握るのが見えた。そうだ。これが俺の麻雀だ。黙って、読んで、狩る。何もしなければ、俺は勝てる。地下でもここでも、それだけは変わらない。
勝てる。今日こそ、何事もなく勝てる。
――そのはずだった。
南二局。雛のツモが、初めて止まった。
指先が牌の上で、ほんの一瞬だけ迷った。コンマ数秒。誰も気づかないような淀み。だが俺の目は、そういうものだけは絶対に見逃さない。
雛の瞳が揺れていた。整然と並んでいたはずの世界が、目の前で音を立てて崩れている。計算が当たらない。最適解が全部裏目に出る。何故。どうして。彼女の呼吸が浅くなり、牌を持つ指が白くなった。
怯えている。
数字という巣の中で育った雛が、巣の外の風に初めて晒されて、震えている。
やめろ、と俺は自分に言った。見るな。それはお前の獲物の弱った姿だ。喜べ。あと数局、この崩れを突けば終わる。黙って突け。黙って、勝て。
南三局、俺の手に決め手が入った。あとはこの一枚を通せば、雛の心ごと折り切れる。
なのに。
その牌が、指の先で重くなった。
鉛を呑んだみたいに、持ち上がらない。卓の下で膝が強張る。心臓の音が耳の奥で膨らんでいく。卓の音が遠のき、照明の白さだけがやけに眩しい。掌に汗が滲んで、牌の感触が溶けていく。六年間、ずっとこうだった。決めきる寸前、勝利の扉に手をかけたその瞬間だけ、俺の体は俺のものじゃなくなる。ああ、これだ。この感じだ。柴崎の時と同じ。体の芯の方から、何かがせり上がってくる――。
言うな。言うな。言うな!
「――おい」
口が、勝手に開いた。
「数字が外れて怖いか。当たり前だ、確率ってのは裏切るためにあるんだからな」
雛の肩がびくりと跳ねた。ハルが観戦席で腰を浮かせる。
やめろ、俺。閉じろ、その口を今すぐ閉じろ!
「けどな、よく見ろ。お前が怖がってるその場所――数字の外に、逃げ道があるぞ!!」
言ってしまった。
会場の静寂の中で、俺の声だけが響いて消えた。ハルが頭を抱えるのが視界の端に映る。俺は奥歯を噛んだ。血の味がするほど噛んだ。何を言ってるんだ俺は。それは、お前を殺す唯一の道を、わざわざ照らしてやる一言じゃねえか!
雛は、動かなかった。
十秒。二十秒。俯いたまま、自分の手牌を見つめている。
やがて、彼女は顔を上げた。
揺れていた瞳の奥に、小さな火が点っていた✨
「……数字の、外」
細い指が、理論上は絶対に切れないはずの一枚をつまんだ。場の状況も、残り枚数も、期待値も、すべての計算が「持て」と告げる牌。それを――雛は、切った。
俺の待ちの、喉元に匕首を突きつける一打だった。
俺のリーチ筋は完全に止められ、手替わりの道まで塞がれた。偶然じゃない。彼女は計算を捨てた一打で、計算の届かなかった俺の急所を正確に射抜いたのだ。
「ロン、とは言わせません」
雛が静かに言った。敬語のままなのに、声の温度が明らかに違う。
「今の一枚は、怖かったです。手が震えました。でも……切れました」
観戦席がどよめいた。ハルだけが、声もなく額を押さえていた。
俺は自分の鼓動がねじれるのを感じていた。まずい、という警報と――綺麗だ、という場違いな感嘆が、胸の中で同時に鳴っている。教科書にも確率表にも載っていない、恐怖ごと振り抜いた生まれたての一打。ああ、くそ。俺はこういう牌に、こういう瞬間に、どうしようもなく痺れちまうんだ。だから口が動く。だから手が鈍る。分かっていて、それでも痺れる。最悪の病気だ。
その局、俺の手は流れた。続く南四局も、雛は要所で数字の檻を踏み越え、俺の仕掛けを潰し続けた。点棒の傾きが、軋みを立てて戻っていく。
規定の休憩が入り、一日目の対局が終わった時、俺のリードは削り取られ、逆にわずかな劣勢へと沈んでいた。鳴神杯初戦は二日制。決着は、明日以降に持ち越しだ。
卓を離れる時、雛が深く頭を下げた。
「東雲さん。明日も、よろしくお願いします」
その声はもう、機械のものじゃなかった。
通路に出た途端、ハルが飛んできた。
「あんた、また育ててる!? 見てたわよ、完っ全に折れてたじゃない、あの子! 黙ってれば勝ってたのに、なんで教えるのよ、なんで!」
「……うるせえ」
俺は壁に拳を押しつけた。悔しい。腹の底が焼けるほど悔しい。勝ちたかった。今日こそ、誰も覚醒させず、ただの勝者として卓を降りたかった。なのにこの口は、この手は、また相手の側に立ちやがった。
その夜、雀荘ねむの木のカウンターで、志乃さんは何も訊かずに熱い茶を置いてくれた。
「顔に書いてあるわよ、陽くん」
それだけ言って、柔らかく笑う。湯呑みの熱が掌に染みて、卓を離れてから初めて、指の震えが止まった。
いや――まだだ。まだ負けたわけじゃない。明日がある。
だったら答えは一つだ。俺は決めた。明日の卓で、俺は一言も喋らない。挨拶も、点数申告以外も、何もかも捨てる。口を縫い付けてでも、黙り通して勝つ。
それでもし勝てないなら、その時は――いや、考えるな。黙れば勝てる。黙りさえ、すればいい。
翌日の卓で待っていたのは、一晩で羽根を乾かし始めた雛の、昨日よりずっと強い眼差しだった。




