第1話 負けるための一言
牌を握った指先が、静かに熱を持っていた。
地下雀壇——賞金制の非公認リーグ。看板も出ていない雑居ビルの三階、煙草の匂いが染みついた薄暗いフロアの中央に、決勝の卓だけが白々と照らされている。壁際に並んだ観客はざっと五十人。誰も声を出さない。金の懸かった卓では、沈黙こそが礼儀だからだ。
オーラス。俺——東雲陽は、トップ目に立っていた。二着との差はおよそ四万点。ここまでの半荘、俺は一度も危険牌を掴んでいない。読みは冴えきっている。相手の待ちが、捨て牌の川から浮かび上がって見える。こういう夜の俺は、誰にも負けない。
対面に座る男の名は、柴崎蓮。無名の若手だ。歳は俺と同じくらいだろう。決勝まで勝ち上がってきた打ち筋は悪くない。素直で、まっすぐで、教科書みたいに正しい麻雀。だが今、その正しさが崩れかけていた。
柴崎の指が、ツモった牌の上で止まる。震えている。点差と、俺の圧に、心が先に潰れかけているんだ。捨てる牌が一巡ごとに縮こまり、攻めの形が守りの形へ化けていく。
——もったいねえな。
胸の奥で、誰かがそう呟いた。こいつの手は、本当は攻め切れば俺に届く形をしている。読める。読めてしまう。柴崎自身が信じ切れていない待ちの正しさが、俺には最初から見えていた。
今夜の俺は、ここまで完璧だった。東場で親の連荘を叩き込み、南場では相手三人の待ちを全部読み切って、一点も撃たずに加点だけを積み上げた。壁際の観客が「化け物だ」と囁くのも聞こえていた。そうだ、俺は強い。この卓の上でなら、誰が相手でも読み負けない。それだけの時間を、牌に捧げてきた自負がある。
だが、それは俺の知ったことじゃない。俺は勝つ。勝ちたい。喉の渇きに似たこの欲は、物心ついた時から腹の底で燃え続けている。負けるのは嫌いだ。骨の髄から嫌いだ。だから今夜、この決勝は俺が獲る。賞金も、名前も、全部だ!
ツモ。指先に吸いつくように牌が来る。手の中で形が完成へ滑り込んでいく。あと一枚。あと一枚切れば、俺は聴牌のまま逃げ切れる。柴崎に残された時間はもうない。奴が大物手を仕上げる前に、この局は終わる。
観客の誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
俺は牌を摘まんだ。何の変哲もない一枚。柴崎には絶対に当たらない、安全で、冷酷で、完璧な一枚。これを河に置けば優勝だ。置くだけだ。指先の仕事はたった数センチ。
なのに——重い。
牌が、鉛みたいに重い。
また始まった。決め手の牌だけが、俺の指の中で質量を増していく。心臓が嫌な速さで鳴る。視界の端で、柴崎のうつむいた顔が見える。震える指。曲がった背中。自分の読みを疑って、自分の麻雀を捨てようとしている、負け方だけを探す顔。
やめろ。見るな。俺は勝つんだ。黙って切れ。黙って、切れ——!
「柴崎」
声が、出た。
俺の口が、俺の許可なく動いていた。
「お前、さっきから自分の手を疑ってるだろ。降り場所ばっかり探して、自分で組んだ待ちを信じてない」
卓の空気が凍った。柴崎が弾かれたように顔を上げる。観客がざわめく。決勝のオーラスで、トップ目が対戦相手に話しかけるなんて正気じゃない。分かってる。分かってるんだよ、そんなことは!
黙れ。黙れ、俺。その先を言うな。言ったら終わる。今夜も、また——
「お前の読みは間違ってねえ。最後まで信じろ!!」
言い切った瞬間、腹の底が冷えて、そして、どうしようもなく熱くなった。
柴崎の目に、火が入るのが見えた。
消えかけていた何かが、音を立てて燃え直す。震えていた指が止まる。曲がっていた背中が伸びる。うつむいていた無名の若手は、もうそこにいなかった。俺の一言が、俺が今夜一番敵に回しちゃいけない打ち手を、この卓に呼んでしまった。
「……ありがとうございます」
柴崎は小さく言って、まっすぐ俺を見た。さっきまで守りに逃げていた手から、迷いなく一枚が放たれる。攻めの牌だ。教科書通りじゃない。たった今、自分の読みだけを信じると決めた人間の一打だった。
そこからの数巡を、俺は生涯忘れないと思う。
柴崎は変わった。ツモの音が変わった。牌が河に置かれる音の芯が変わった。俺が読み切っていたはずの手順を自ら壊し、より鋭い形へ組み替えていく。俺の読みが一巡遅れる。たった一言で、人間の麻雀はここまで化けるのか。
観客も異変に気づいていた。壁際のざわめきが、波みたいに卓へ押し寄せてくる。「あの若いの、顔つきが変わったぞ」「東雲が、何を言ったんだ?」——うるせえ。俺が一番聞きたいくらいだ。なんで言った。なんで俺の口は、俺の勝ちより先に、相手の麻雀を救いに行くんだ!
それでも俺は押した。降りる選択肢なんて、最初から俺の中にはない。ツモのたびに指先へ神経を集めて、細くなっていく勝ち筋を必死で手繰る。心臓が痛い。呼吸が浅い。それでも卓を降りない。負けず嫌いだけが、俺の背骨だからだ!!
——リーチ。
柴崎の千点棒が、澄んだ音を立てて卓に置かれた。
俺の手は聴牌のまま動けない。降りるか。押すか。押せば俺の勝ちも残っている。だが柴崎の待ちが、今度は読めない。さっきまで透けて見えていた川が、別人の川になっている。俺が濁らせたんだ。俺自身の口が!
ツモ、と柴崎が静かに言った。
倒された手牌が照明を受けて、裏返った一枚が✨と光った。裏が乗った。倍満。柴崎蓮、逆転。
一瞬の静寂のあと、地下のフロアが揺れた。歓声。怒号みたいな拍手。無名の若手が決勝で大物食いをやってのけたのだから当然だ。柴崎は呆然と自分の手牌を見下ろし、それから深々と、俺に向かって頭を下げた。
「東雲さん。俺、あなたの一言がなかったら、降りて終わってました」
知ってるよ。俺が一番知ってる。
「……いい麻雀だった」
それだけ言うのが精一杯だった。卓の下で、俺は拳を握り潰していた。爪が掌に食い込んで、ちぎれそうに痛い。悔しい。悔しい悔しい悔しい、死ぬほど悔しい!! 勝てたんだ。黙って一枚置くだけで勝てた。なのに俺は、また自分の手で自分の優勝を焼き捨てた。
覚醒屋。誰かがそう呼ぶのが聞こえた。相手を目覚めさせて、自分は散る男。畏怖と嘲りが半分ずつ混じった、俺の二つ名だ。賞金を受け取る柴崎の背中を、俺は最後まで見ていた。憎めないのが余計に腹立たしい。あいつの麻雀は、覚醒したあとの方が間違いなく美しかった。それを引き出したのが俺の一言だという事実が、誇らしくて、死ぬほど忌々しい。この矛盾ごと、俺は今夜も敗者の席に座っている。
ビルの外に出ると、夜風が汗に冷たかった。非常階段の錆びた手すりに寄りかかって空を仰ぐ。星なんか見えない。見えるのは、さっきの裏返った一枚の残像だけだ。
「見てたよ、全部」
声に振り向くと、街灯の下に制服姿の女子高生が立っていた。美嶋ハル。俺の対局に押しかけては、遠慮の欠片もない実況を浴びせてくる観戦常連だ。こいつも昔、俺の一言で覚醒した側の人間だった。
「今夜のあんた、途中までは完璧だった。読みも、押し引きも、全部。……途中まではね」
わざとらしく区切るな。分かってて言ってるだろ、こいつは。ハルはつかつかと歩み寄ってきて、俺の鼻先に一通の封筒を突きつけた。上等な紙に、雷紋の意匠。差出人の欄には、公式戦の主催連盟の名が刷られている。
「鳴神杯。公式トーナメントの招待状。あんた宛てに届いてたから、預かってきた」
「……興味ねえよ」
「嘘つき! 今、指が動いたでしょ!」
ハルの目は笑っていなかった。それどころか、うっすら潤んでいた。
「あたし、今夜も見てたんだからね。あんたが勝てた瞬間も、あんたの口が全部台無しにした瞬間も、全部!! ねえ、鳴神杯に出て、また同じことする気? また誰かを主人公にする気!?」
主人公、か。言い得て妙だ。俺はいつだって、物語の一番いい場面で相手を立たせる係だった。かませ犬。咬ませて、輝かせて、散る。六年前、俺自身がそうやって覚醒させられた日から、ずっと。
「知るかよ。俺は毎回、意地でも勝つ気で卓に着いてる」
「なら証明してよ! 次こそ、最後まで黙って勝ちなさいよ!!」
押しつけられた封筒は、夜気を吸って冷たかった。握り潰してしまえば楽になる。もう誰も覚醒させず、誰にも負けずに済む。指に力がこもる。封筒の角が歪む。
——それでも。
悔しさで灼けた胸の奥が、まだ勝ちたいと吠えている。負けっぱなしで終われるか。冗談じゃない。俺は雀士だ。散るために卓に着く男じゃない、勝つために着くんだ!!
俺は招待状を、握り潰さずに、握りしめた。
この一通の先で待つ相手が、俺の何を目覚めさせることになるのか——このときの俺は、まだ知らない。




