9杯目 地震は明日を願う
あの日から数日が経っていた。
路地裏には、いつものように提灯の明かりが揺れ、寸胴鍋から立ち上る湯気が静かな夜へ溶けていく。店主は麺を打ちながら、小さく独り言をこぼした。
「また来る気がするんだよな。」
その言葉を聞いていたかのように、
カラン……暖簾が静かに揺れた。
「こんばんは。」
聞き覚えのある声だった。
店主が顔を上げると、そこには先日訪れた地震の少女が立っていた。
前に会った時と違い、泥だらけだった着物はきれいになり、髪も丁寧に結ばれている。
何より、その表情には少しだけ笑顔が戻っていた。
「おう。元気そうじゃねぇか。」
地震は照れくさそうに笑う。
「うん……少しだけ。」
店主は暖簾を上げる。
「入れよ。」
「今日は揺れないと思う。」
「思う?」
「たぶん。」
二人は思わず笑った。地震が席へ腰掛けても、屋台はまったく揺れなかった。
店主はその様子を見て安心したように頷く。
「本当に落ち着いたみたいだな。」
「うん。この前、あなたと話してからね。」
地震は少し嬉しそうだった。
店主は鍋へ向かう。
「今日は何にするかな。」
「おすすめ!」
「今日は味噌だな。」
「また違うの?」
「毎回同じじゃつまらねぇ。」
地震は目を輝かせた。
「楽しみ!」
店主は野菜を炒め始める。キャベツ、もやし、玉ねぎ。
鍋に入れた瞬間、香ばしい音が屋台いっぱいに響く。そこへ味噌だれを合わせ、寸胴のスープを注ぐ。味噌の香りがふわりと広がった。
「できたぞ。」
「いただきます!」
地震は勢いよく麺をすすった。
「あっ、おいしい!
前のもおいしかったけど、これも好き!」
店主は腕を組み、満足そうに笑う。
「そりゃ良かった。」
地震は夢中になって食べ進めた。
最後にスープを一口飲み、大きく息を吐く。
「ふぅ……。やっぱりあなたのラーメン、世界一だね。」
店主は肩をすくめた。
「世界一かどうかは知らねぇけど、腹いっぱいになったなら十分だ。」
しばらく静かな時間が流れる。店主は湯呑みにお茶を注いだ。
「それで。」
「今日は相談じゃないんだろ?」
地震は少し俯いた。
「うん……でも。」
「やっぱり相談なのかな。」
店主は苦笑する。
「どっちでもいい。」
地震は湯呑みを両手で包みながら話し始めた。
「あなたに言われたこと、ずっと考えてたの。わたしは世界を支えてるって。だから、少しだけ前を向けた。」
店主は静かに頷く。
「でもね。」
その表情が曇る。
「この前、大きな地震があったの。」
店主の表情が少しだけ引き締まる。
「わたしじゃない。でも、わたしでもある。」
「どういうことだ?」
「事象にはね。“わたし”がたくさんいるの。」
店主は少し驚いたように目を見開いた。
地震は続ける。
「世界中で起こる地震は、一人じゃ支えられない。だから、たくさんの”地震”がいるの。わたしはその中の一人。」
店主が初めて聞く話だった。
「その地震でね……。」
地震は拳を握る。
「町が壊れた。たくさんの人が泣いた。ニュースではまた、“地震が人々を襲いました”って。みんな地震を嫌いになる。そのたびに、仲間たちは自分を責める。」
地震は俯く。
「昨日、一人の仲間が消えたの。」
店主は目を細めた。
「……消えた?」
「うん。自分なんて必要ないって。世界からいなくなっちゃった。」
屋台の空気が静まり返る。店主は何も言わない。
地震は震える声で続けた。
「もし、仲間がみんないなくなったら……。世界はどうなるの?」
店主は静かに湯気の向こうを見つめた。その表情は、今までになく真剣だった。
「……それは。」
創造主である自分だからこそ知っている答え。
しかし、その答えを簡単に口にしていいものなのか。
店主は静かに目を閉じた。
地震の少女は不安そうな表情で答えを待っている。
「……もし、仲間がみんないなくなったら。」
「世界はどうなるの?」
その問いに、店主はすぐには答えられなかった。
それは誰よりも、この世界を創った自分が知っている答えだった。
「世界は、止まる。」
地震は息を呑んだ。
「止まる……?」
「ああ。」
店主は静かに話し始める。
「山は生まれなくなる。大地は動かなくなる。海の底も眠ったままになる。一見すると平和な世界に見える。でも、それは違う。」
地震は真剣な眼差しで聞いている。
「世界ってのはな。動き続けるから生きてる。川も流れる。風も吹く。雨も降る。春が来て、夏が来て、秋になり、冬になる。全部、止まらないから命が巡る。」
店主は湯呑みを見つめながら続けた。
「地震も同じだ。お前たちは世界の鼓動なんだ。鼓動が止まれば、生き物は死ぬ。」
地震は小さく呟く。
「わたしたちは……鼓動。」
「そうだ。」
店主は優しく笑った。
「誰にも褒められない仕事かもしれねぇ。誰かを悲しませることもある。でも、誰かがやらなきゃ世界は続かねぇ。」
地震は少しだけ涙ぐみながら聞いていた。
「じゃあ……。仲間を助けたい。」
店主は頷く。
「どうやって?」
地震は俯く。
「分からない。だから来たの。」
その言葉に店主は少し笑った。
「なるほどな。」
店主は空になった丼を自分の方へ引き寄せる。
「今回は映るかな。」
地震も身を乗り出す。二人は一緒にスープを覗き込んだ。
黄金色の水面が静かに揺れる。
しかし、やはり未来は映らない。代わりに、小さな波紋だけが幾重にも広がっていく。
店主はその波紋をじっと見つめた。
「……そうか。分かった。」
地震は首を傾げる。
「何が?」
店主は波紋を指差した。
「見てみろ。」
一つの波紋が広がる。
その波紋に別の波紋が重なる。
さらに別の波紋も重なり合い、やがて大きな円になった。
「一人じゃ小さい。」
「でも、重なれば大きくなる。」
地震は目を見開く。
「仲間……。」
「そう。」
店主は静かに頷く。
「お前一人で全部背負う必要はねぇ。苦しいなら仲間に話せ。泣きたいなら泣け。支え合えばいい。」
地震は少しだけ笑った。
「でも、仲間もみんな苦しんでる。」
「だったら。」
店主は笑う。
「お前が最初に笑え。」
「え?」
「笑顔ってのは移る。一人が笑えば、隣も少しだけ笑う。それが広がる。逆に、一人で全部抱え込めば、その苦しさも広がる。」
地震はしばらく考えていた。
やがて、小さく頷く。
「わたし……。帰ったら話してみる。みんなに。」
店主は嬉しそうに笑った。
「それでいい。お前たちは一人じゃない。」
地震は立ち上がる。
「ありがとう。また救われちゃった。」
店主は照れくさそうに頭をかいた。
「ラーメン屋だからな。相談屋じゃねぇ。」
地震はくすっと笑う。
「でも、また来るね。相談がなくても。」
「もちろん。腹が減ったら来い。」
「うん!」
地震は暖簾をくぐり、夜の路地裏へ歩き出した。
その背中は、第六杯で初めて会った時とは比べものにならないほど力強かった。
店主はその姿を見送りながら、小さく息を吐く。
「……世界の鼓動、か。」
その言葉には、自分自身へ言い聞かせるような響きもあった。
もし。
あの日、自分がこの世界を創っていなければ。
もし。
事象という存在を生み出していなければ。
こんな苦しみを背負う者はいなかったのではないか。
店主はその考えを振り払うように首を横へ振る。
「俺まで悩んでどうすんだ。」
そう呟いて丼を持ち上げた、その時だった。
――カタリ。
誰も触れていないはずの丼が、小さく震えた。
店主はゆっくりと視線を落とす。スープの表面には、一瞬だけ見知らぬ景色が映っていた。
赤黒く染まった空。崩れ落ちる山々。泣き叫ぶ神々。
そして、その中心で一人立ち尽くす ━━自分。
「……今のは。」
瞬きをした瞬間、映像は消えていた。
店主はしばらく動かなかった。
「見間違い……じゃねぇよな。」
静かな路地裏に、夜風だけが吹き抜ける。暖簾が揺れ、提灯の灯がわずかに揺らめいた。
店主は誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「嫌な未来だ。」
その胸の奥に生まれた小さな不安は、まだ誰にも知られていなかった。




