10杯目 恋愛の神様は恋を知らない
夜風が暖簾を優しく揺らす。
路地裏の奥にある小さな屋台には、今日も変わらず提灯の灯りがともっていた。
寸胴鍋から立ち上る湯気が、夜空へゆっくりと溶けていく。
店主は鼻歌を歌いながら麺を打っていた。
「さて、今日は誰が来るかな。」
そう呟いた、その時だった。
どこからともなく、甘い花の香りが風に乗って漂ってきた。
桜でもない。梅でもない。どこか心が落ち着く、不思議な香りだった。
「……ん?」
店主が路地裏の奥へ目を向ける。
そこには、一人の少女が立っていた。
年は十六、七ほど。桃色がかった長い髪を腰まで伸ばし、白と紅色を基調とした巫女のような装束を身にまとっている。
頭には小さな花飾り。歩くたびに、花びらがふわりと舞い落ちる。
少女は屋台を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「見つけた!」
勢いよく暖簾をくぐろうとして――
ゴンッ。額を暖簾の柱へ思い切りぶつけた。
「いったぁぁぁ……。」
額を押さえてしゃがみ込む少女。店主は思わず吹き出した。
「派手にぶつかったな。」
少女は涙目になりながら立ち上がる。
「わ、笑わないでください!」
「悪い悪い。」
「絶対思ってません!」
「いや、ちょっと思った。」
「ひどいです!」
少女は頬を膨らませる。
その姿がおかしくて、店主はまた笑ってしまった。
「まぁ入れよ。」
「……はい。」
少女は少し拗ねたまま席へ座る。店主はその様子を見ながら笑った。
「腹減ってるだろ?」
「はい!」
さっきまで拗ねていたのが嘘のような返事だった。
「元気だけはあるな。」
「そこだけは自信があります!」
「そこ”だけ”か?」
少女は少し考えてから、小さく頷く。
「……たぶん。」
店主は肩を震わせて笑った。
「面白い奴だな。」
少女もつられて笑う。
屋台の空気が一気に明るくなった。
「今日は何ラーメンですか?」
「今日は塩ラーメンだ。」
「しお!」
「恋をすると、甘いものばかり食べたくなる奴が多いからな。」
「たまにはあっさりした方が頭も冷える。」
少女は首を傾げた。
「恋って、そんなものなんですか?」
店主は手を止めた。
「……ん?」
少女は不思議そうな顔をしている。
「恋って何ですか?」
店主は一瞬固まった。
「知らねぇのか?」
少女は首を横に振る。
「本で読んだことはあります。」
「でも、自分では分からなくて。」
「だから今日は、その相談に来ました!」
店主は眉をひそめる。
「相談?」
「はい!恋愛について!」
「なるほど。」
店主は頷きながら麺を茹で始める。
「そういや名前聞いてなかったな。」
少女は背筋を伸ばした。
「わたしは恋愛の神です!」
店主の動きがぴたりと止まる。
「……恋愛の神?」
「はい!」
「恋を司る神様です!」
店主はしばらく黙っていた。そして、静かに笑い出した。
「ははは!」
「えっ!?なんで笑うんですか!」
「いや……。」
店主は笑いをこらえながら言った。
「恋愛の神が恋を知らねぇのか。」
少女は恥ずかしそうに俯いた。
「そうなんです……。みんなの恋を応援するのが仕事なんですけど。実は、恋をしたことがなくて。」
店主は笑うのをやめ、真剣な表情になる。
「それで困ってると。」
「はい。」
少女は小さく頷いた。
「人間や妖怪、それに神様まで。毎日たくさんお願いが届きます。『好きな人と結ばれますように。』『告白が成功しますように。』『もう一度、あの人に会えますように。』」
少女は両手を胸の前でぎゅっと握った。
「わたしは、その願いを叶えるために力を使います。でも……わたし自身は恋を知らない。だから最近、本当にこれでいいのかなって思うようになったんです。」
店主は黙って話を聞いていた。少女は続ける。
「ある日、一人の女の子に聞かれたんです。『神様は恋をしたことあるの?』って。わたし……答えられませんでした。」
少女は少しだけ笑う。その笑顔は、とても寂しかった。
「恋を知らない神様が、人の恋を応援してもいいのかなって。」
屋台に静かな時間が流れる。
店主は火加減を調整しながら、小さく息をついた。
「難しい相談だな。」
「ですよね。」
「でも。」
店主は麺を湯切りしながら笑う。
「まずは腹いっぱいになってから考えようぜ。」
透き通った黄金色のスープを丼へ注ぐ。
そこへ麺を入れ、鶏チャーシュー、三つ葉、ゆずの皮を少しだけ添える。
最後に桜色のかまぼこを一枚。
「お待ち。」
少女は目を輝かせた。
「わぁ......!きれい。食べるのがもったいないです。」
「冷める方がもったいねぇ。」
「それもそうですね!」
少女は箸を持ち、手を合わせる。
「いただきます。」
湯気の向こうで、少女はそっと麺をすすった。
その瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
「おいしい!こんな優しい味、初めてです!」
店主は腕を組みながら満足そうに笑った。
「そりゃよかった。」
少女は夢中で食べ進める。
恋を司る神でありながら、今はただ一人の少女のように無邪気な笑顔を浮かべていた。
やがて最後の一口を食べ終え、丼をそっと置く。
「ごちそうさまでした。」
店主は頷くと、静かに丼を少女の前へ戻した。
「さて。」
「ここからが本番だ。」
少女は店主の言葉に気づき、静かにスープを覗き込む。
黄金色の水面がゆっくりと揺れ始める━━黄金色のスープが静かに揺れる。
恋愛の神は息を呑み、水面を覗き込んだ。
波紋はゆっくりと広がり、やがて一つの景色を映し始める。
━━春の日差しが差し込む小さな公園。桜の花びらが風に舞い、子どもたちの笑い声が響いていた。その中を、恋愛の神が歩いている。
しかし、人々にその姿は見えない。
「今日もたくさんお願いが届いてるなぁ。」
そう呟きながら、一人の女子高校生の前で立ち止まった。
少女は桜の木の下で何度も深呼吸を繰り返している。制服のポケットには、一通の手紙。
震える手で何度も握り直していた。恋愛の神は少女の周りを歩きながら、小さく微笑む。
「大丈夫。きっとうまくいくよ。」
そっと力を贈る。
少女は勇気を振り絞り、一人の男子生徒へ駆け出した。
「す、好きです!」
その声は震えていた。男子生徒は驚きながらも笑顔になる。
「俺も。」
二人は照れくさそうに笑い合った。恋愛の神も嬉しそうに笑う。
「よかったぁ。」
その笑顔を見た瞬間、景色が変わる。
今度は雨の降る街角。
一組の男女が向かい合っていた。女性は泣いている。男性は何度も頭を下げていた。
「ごめん。」
「もう一緒にはいられない。」
恋愛の神は慌てて二人の間へ入る。
「待って!」
「まだ終わらないで!」
力を送ろうとする。しかし、何も起こらない。
二人は静かに別々の道へ歩いていった。恋愛の神は呆然と立ち尽くす。
「どうして……。」
涙が一滴、頬を伝った。
景色はまた変わる。
年老いた夫婦が、病室で手を繋いでいた。夫はベッドに横たわり、静かに息をしている。
妻は優しく笑っていた。
「あなた。ありがとう。」
夫も小さく笑う。
「幸せだった。」
恋愛の神は二人を見つめている。
夫は最後に妻の手を少しだけ強く握り、そのまま静かに目を閉じた。
妻は泣いていた。けれど、その表情はどこか穏やかだった。
「また、会いましょう。」
その言葉と共に景色は消えた。━━
スープは元の黄金色へ戻る。恋愛の神はしばらく動けなかった。
「どうして……幸せな恋だけじゃない。別れもある。届かない想いもある。」
店主は静かに頷いた。
「恋だからな。」
恋愛の神は俯く。
「わたし。全部幸せにできると思ってました。神様だから…でも違った。」
店主は湯呑みにお茶を注ぐ。
「飲め。」
恋愛の神は両手で受け取り、一口飲んだ。
温かさが胸へ広がる。店主は静かに話し始める。
「恋ってのはな。結ばれることだけじゃねぇ。」
恋愛の神は顔を上げる。
「え?」
「片想いも恋だ、失恋も恋だ。夫婦になることだけが恋じゃない。別れることだって恋の一つだ。」
恋愛の神は驚いたような表情になる。店主は続けた。
「だから、お前の力で全部を幸せにする必要はねぇ。」
「でも……みんな願ってるんです。叶えてあげたい。」
店主は少し笑う。
「願いを叶えるのと、心を決めるのは別だ。」
恋愛の神は首を傾げた。
「恋は相手の気持ちもある。一人じゃ決められねぇ。だから神様は最後の一歩を背中から押すだけでいい。無理やり引っ張るもんじゃない。」
恋愛の神は静かにその言葉を噛みしめる。
「背中を押す……。」
「そう。」
店主は頷いた。
「告白する勇気、ありがとうって伝える勇気、ごめんって言う勇気、さよならを受け入れる勇気、そういうもんを少しだけ支えてやれば十分だ。」
恋愛の神の目に涙が浮かぶ。
「わたし……勘違いしてました。恋を成功させるのが仕事だと思ってました。」
店主は笑う。
「違う、恋を応援するのが仕事だ。」
その一言で、恋愛の神の涙がこぼれ落ちた。
「応援……。」
「そうだ、成功しても失敗しても。恋をしたこと自体が、その人にとって大事なんだ。」
恋愛の神は涙を拭いながら笑った。
「あなたって、本当に不思議な人…そんなこと言われたの初めてです。」
店主は照れくさそうに鼻をかく。
「俺も恋なんてよく分かってねぇよ。」
「えっ?」
恋愛の神は驚く。
「好きって気持ちは見たことある。でも、自分で誰かを好きになったことはねぇ。」
恋愛の神はくすっと笑う。
「それなのに、こんなに分かるんですね。」
店主は肩をすくめた。
「分かるんじゃない。今までここへ来た客が教えてくれたんだ。」
恋愛の神はその言葉を聞いて、優しく微笑んだ。
「なんだか。少しだけ恋が好きになれそうです。」
店主も笑う。
「それで十分だ。」
恋愛の神は立ち上がる。
「また来てもいいですか?」
「もちろん。」
「今度は相談じゃなくて、恋のお話を聞かせに。」
店主は親指を立てた。
「ラーメン食いながらなら大歓迎だ。」
恋愛の神は嬉しそうに笑い、暖簾をくぐって夜の路地裏へ消えていった。
店主は一人になった屋台で、空になった丼を洗い始める。
「恋、か……。」
そう呟いた時だった。
ふわり、と一枚の桜の花びらが風に乗って屋台へ舞い込む。
季節はまだ、桜の咲く時期ではない。
店主は花びらを手に取り、小さく目を細めた。
「……お前も、誰かを応援できたみたいだな。」
花びらは淡く光ると、夜風に乗って静かに消えていった。
暖簾が優しく揺れる。
その灯りは、今夜もまた、誰かの想いをそっと照らし続けていた。




