7杯目 夢を諦めた男
夜も更け、人通りも途絶えた路地裏に、今日も小さな屋台の提灯が優しく揺れていた。
ぐぐつと音を立てる寸胴鍋から立ち上る湯気が夜空へ溶けていく。
店主は鍋をゆっくりとかき混ぜながら、小さく息をついた。
「今日は誰も来ねぇかな。」
そう呟いた時だった。カラン……
暖簾が静かに揺れる。店主が顔を上げると、一人の男が立っていた。
年は三十歳くらいだろうか。
黒いスーツを着ているものの、袖口は少しくたびれ、ネクタイは緩みきっている。髪もぼさぼさで、目の下には深い隈ができていた。
肩から下げた革の鞄はパンパンに膨らんでいる。その口からは何枚もの紙が飛び出していた。
店主は笑顔で声を掛ける。
「らっしゃい。」
男は少し驚いたような顔をしてから、小さく頭を下げた。
「こんばんは……。」
「好きな席へどうぞ。」
男は屋台を見渡し、一番端の席へ腰を下ろした。店主は男の様子をちらりと見た。
疲れている。
それも、一日仕事をした疲れではない。何年も何かを抱え続けてきた人間の顔だった。
「何食べる?」
男は慌てて財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少しだけ。
「一番安いのでお願いします。」
店主は財布を見て苦笑した。
「うちは全部同じ値段だ。」
「え?」
「だから好きなの食え。」
男は困ったように笑う。
「じゃあ……おすすめで。」
「任せとけ。」
店主はそう言うと、大きな鍋へ麺を入れた。湯気が勢いよく立ち上る。
その間に丼へ醤油だれを注ぎ、鶏ガラと煮干しで取った透き通ったスープを静かに流し込む。
黄金色に輝くスープから、どこか懐かしい香りが広がった。
茹で上がった麺を丁寧に湯切りし、丼へ。大きなチャーシューを二枚。メンマ。刻みねぎ。
最後に海苔を添える。店主は満足そうに頷いた。
「お待ちどう。」
男は目を丸くする。
「……すごく、おいしそうですね。」
「見た目だけじゃねぇぞ。」
男は少しだけ笑った。
「いただきます。」
箸で麺を持ち上げる。
ふわりと醤油の香りが鼻をくすぐった。一口。
その瞬間だった。男の動きが止まる。店主は何も言わず見守る。
男はもう一口すすった。そして、また一口。気付けば無言で麺をすすり続けていた。
スープを飲み、チャーシューを頬張る。最後の一滴まで飲み干す頃には、先ほどまでの暗い表情が少しだけ柔らかくなっていた。
「ごちそうさまでした。」
男は心からそう言った。店主は湯呑みに温かいお茶を注ぐ。
「ほら。」
「あ、ありがとうございます。」
湯呑みを受け取る男の手は少し震えていた。
温かい湯気を見つめながら、男はぽつりと呟く。
「こんなに落ち着いてご飯を食べたの……いつぶりだろう。」
店主は笑った。
「忙しいのか?」
「ええ……まぁ。」
「仕事?」
男は少し考えてから首を横に振る。
「仕事もですけど……本当に忙しいのは仕事じゃないんです。」
「ほう?」
店主は頬杖をついた。
「話してみな。」
男は苦笑する。
「初対面なのに、変なお店ですね。」
「相談屋じゃねぇぞ。」
店主は笑いながら言う。
「ただ、腹いっぱいになったら人って話したくなるもんなんだ。」
男は湯呑みを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……そうかもしれませんね。」
しばらく沈黙が流れる。
屋台には寸胴鍋の煮える音だけが響いていた。やがて男は肩に掛けていた鞄をゆっくりと開ける。中から分厚い原稿の束を取り出した。紙は何度も読み返した跡があり、角は少し折れている。その上には、一枚の封筒が置かれた。
赤い文字が店主の目に入る。
『選考結果 落選』
男は苦笑した。
「これで三十五回目です。」
店主は封筒から男へ視線を戻す。
「小説か。」
男は静かに頷いた。
「小説家を目指しています。」
「昔からか?」
「子どもの頃からです。」
男は少しだけ遠くを見るような目をした。
「小学生の頃、国語の授業で書いた物語を先生に褒められたんです。」
「それが嬉しくて。」
「いつか本を書きたいと思うようになりました。」
男は原稿を優しく撫でる。
「でも現実は甘くありませんでした。」
「仕事が終わってから毎日書いて。」
「休日も書いて。」
「寝る時間を削って。」
「応募して。」
「落ちて。」
「また書いて。」
「また落ちて。」
男は笑った。
その笑顔は、とても寂しかった。
「気付けば三十五回。」
「もう才能なんてないんじゃないかって……最近はそんなことばかり考えてしまうんです。」
店主は何も言わなかった。男の言葉が途切れるまで、静かに耳を傾けていた。
店主は静かに湯呑みを置いた。
「それで。」
男は顔を上げる。
「お前はどうしたい。」
その一言に、男は言葉を詰まらせた。
「どうしたい……ですか。」
「そうだ。」
店主は腕を組みながら続ける。
「出版社がどうとか、才能がどうとかじゃねぇ。」
「お前自身はどうしたい。」
男は俯いた。
しばらく考え、小さく息を吐く。
「……もう、分からないんです。」
「書くことは好きです。」
「物語を考えるのも好きです。」
「でも、応募するたびに落ちる。」
「周りからは諦めろって言われる。」
「親にも、『そろそろ現実を見ろ』って。」
男は苦笑した。
「最近は、自分でもそう思うようになってきました。」
「だから……もう終わりにしようかと。」
店主は男の目を真っ直ぐ見つめる。
「それ、本心か?」
男は答えられなかった。店主は男の前へ丼をゆっくりと押し出す。
「だったら、見てみな。」
男は首を傾げる。
「丼を見ろ。」
言われるまま、男はスープを覗き込む。黄金色だったスープが静かに波打つ。
ゆらり、ゆらりと揺れた水面は、やがて一枚の鏡のようになった。
「……これは。」
男は目を見開く。そこには、一人の老人が映っていた。
白髪混じりの髪。深く刻まれた皺。その老人は、小さな部屋で段ボールを整理している。
「俺……?」
店主は静かに頷いた。
「お前の未来だ。」
老人は押し入れの奥から、一冊のノートを見つけた。埃を払い、ゆっくりと開く。
中には、小説の原稿がびっしりと書かれていた。
「懐かしいな……。」
老人は小さく笑う。若い頃の夢。
小説家になるという夢。
何十回も落選し、途中で諦めた夢。老人は窓の外を見る。
夕焼けが部屋を赤く染めていた。
机の引き出しには、何十枚もの落選通知。老人は原稿を胸に抱きしめ、小さく呟く。
「あと一作だけ……。」
「あと一作だけ書けばよかった。」
涙が一滴、原稿へ落ちる。その涙は紙へ染み込み、文字を滲ませていく。
「本当に書きたかった話があったんだ。」
「でも……怖かった。」
「また落ちるのが。」
「笑われるのが。」
「才能がないって認めるのが。」
老人は静かに目を閉じた。部屋には、誰もいない。
机の上には、一度も誰にも読まれなかった原稿だけが積まれていた。
そこで未来はゆっくりと途切れた。
男はしばらく動けなかった。
「……俺。」
震える声が漏れる。
「後悔してる。」
店主は静かに頷く。
「ああ。」
男は俯いた。
「でも現実は違います。」
「三十五回も落ちたんです。」
「普通なら諦めます。」
店主は笑った。
「普通って誰が決めた。」
男は顔を上げる。
「え?」
「お前は三十五回落ちた。」
「だから何だ。」
「……。」
「三十五回挑戦した。」
「それが今のお前だろ。」
男は何も言えない。
店主はゆっくりと言葉を続けた。
「才能なんてもんはな。」
「最初からある奴もいる。」
「努力して身につける奴もいる。」
「最後まで分からない奴もいる。」
店主は男を指差した。
「でも一つだけ確かなことがある。」
「書くのをやめた瞬間、夢は終わる。」
屋台に静かな風が吹く。提灯が小さく揺れた。男は拳を握り締める。
「……怖いんです。」
「また落ちるのが。」
「次も、その次も。」
「怖くて仕方ない。」
店主は少し笑う。
「落ちろ。」
「……え?」
「また落ちろ。」
男は目を丸くする。店主は真顔だった。
「三十六回でも。」
「五十回でも。」
「百回でも。」
「何回落ちてもいい。」
「でもな。」
店主は優しく笑った。
「百一回目に受かる奴は、百回目で諦めなかった奴だけだ。」
男は思わず笑ってしまった。
「ずいぶん無茶苦茶ですね。」
「そうか?」
「でも……。」
男は少しだけ肩の力を抜いた。
「なんだか、気が楽になりました。」
店主は頷く。
「それでいい。」
「賞を取るために書くな。
誰かを驚かせたい。誰かを泣かせたい。誰かを笑わせたい。
その気持ちを忘れるな。」
男はゆっくりと立ち上がる。原稿を鞄へしまい、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「また書いてみます。」
「今度は、自分が一番書きたい物語を。」
店主は笑顔で手を振る。
「完成したら持って来い。」
「読んでくれるんですか?」
店主は少し考えてから笑った。
「いや。」
男は驚いた。
「え?」
「読まねぇ。」
「えぇっ!?」
店主は楽しそうに笑う。
「だって、お前の物語はお前を知らない誰かに読んでもらうもんだ。」
「俺が最初の読者になるのは、なんか違うだろ。」
男は少し呆れながら笑った。
「変わった店主ですね。」
「よく言われる。」
二人は顔を見合わせて笑った。男は暖簾をくぐる前に振り返る。
「また来ます。」
「今度は胸を張って。」
店主は親指を立てた。
「待ってる。」
男は軽く頭を下げ、夜の路地裏へと歩いて行った。その背中は、店に入ってきた時よりも少しだけ軽く見えた。
それから一年後。
店主が屋台の掃除をしていると、一冊の本が暖簾の前に置かれていた。
表紙には、金色の文字でこう書かれている。
『路地裏のラーメン屋』
帯には、「新人文学賞受賞作」と印刷されていた。
店主は本を手に取り、小さく笑う。
「やるじゃねぇか。」
本を開こうとして、ふと手を止める。
「……いや。」
「これは、俺が読むもんじゃねぇな。」
店主は本を大切に棚へしまった。
「きっと、誰かの背中を押してやれ。」
そう呟くと、提灯が夜風に揺れた。
その光は、また一人の迷える誰かを照らすように、静かに路地裏を照らし続けていた。




