6杯目 死神は笑えない
夜の帳が静かに街を包む。
路地裏の奥の小さな屋台には今日も橙色の提灯が灯っていた。
ぐつぐつと煮える寸胴鍋から立ち上る湯気を眺めながら、店主は一人つぶやく。
「今日は静かだなぁ……。」
その時だった。
カラン……
普段なら聞こえないはずの鈴の音が、路地裏に響いた。
店主が顔を上げる。黒い外套を羽織った一人の青年が立っていた。
年齢は二十歳くらいだろうか。
整った顔立ちだが、表情は暗い。背中には一本の大きな鎌を背負っている。
……いや、普通の人ならその鎌は見えない。店主は苦笑した。
「そんなもん背負って歩いてりゃ肩凝るぞ。」
青年は驚いたように目を見開く。
「……見えるのですか。」
「見えるよ。」
「そうですか……。」
青年は静かに暖簾をくぐった。
「何にしますか?」
と青年は聞いた。店主は思わず吹き出す。
「それはこっちの台詞だ。」
「あ……。」
青年は少し恥ずかしそうに俯いた。
「店に入るのが初めてで……。」
「そうか。」
店主は青年を見つめる。
「死神。」
青年は小さく頷いた。
「はい。」
「珍しいな。」
「座敷わらしさんから聞きました。」
店主は天を仰ぐ。
「あいつ、また営業してんのか……。」
青年は少しだけ口元を緩めた。
しかし、その笑みはすぐに消えてしまった。
店主は鍋の前に立つ。
「今日は塩ラーメンにするか。」
透き通った黄金色のスープ。細麺。柚子の香りをほんの少し。
「死神ってのは、冷たいものばっか見てるだろ。」
「だから今日は温まれ。」
青年は静かに頭を下げた。
「いただきます。」
一口。その瞬間。青年の目が少しだけ大きくなる。
「……温かい。」
もう一口。
また一口。
夢中になって食べ進める。
食べ終える頃には、頬に少しだけ赤みが差していた。
店主は湯呑みにお茶を注いだ。
「それで?」
青年はしばらく黙っていた。やがて静かに話し始める。
「私は……死神なんです。」
「知ってる。」
「毎日、人の命を迎えに行きます。」
「うん。」
「子どもも。」
「老人も。」
「事故で亡くなる人も。」
「病気の人も。」
青年は拳を強く握った。
「みんな……泣くんです。」
「助けてくれって。」
「まだ死にたくないって。」
「家族に会いたいって。」
青年の声が震える。
「でも私は……何もできない。」
「連れて行くしかない。」
「笑われることなんてありません。」
「感謝されることもありません。」
「嫌われるだけです。」
青年は顔を伏せた。
「もう……この仕事を辞めたい。」
店主は静かに聞いていた。
やがて言う。
「お前は辞めたいのか?」
「はい。」
「その先は?」
「……考えたことありません。」
「なら考えてみろ。」
店主は丼を青年の前へ寄せた。
「お前はどうしたい。」
青年は目を閉じる。
しばらくして、小さく呟く。
「……誰も死なない世界になればいい。」
その瞬間。スープが静かに波打った。
未来が映る。町には笑顔が溢れていた。
病気もない。事故もない。誰も死なない。青年は安心したように微笑む。
しかし、百年。二百年。五百年。人は死なない。
子どもは生まれても老人は死なない。町は人で溢れた。
食べ物が足りない。争いが始まる。親より先に子が老いる。
病に苦しみながらも死ねない人。永遠に眠れない老人。
「お願いだ……終わらせてくれ……。」
泣き叫ぶ声だけが世界に響く。青年は震えた。
「そんな……。」
さらに未来は続く。花は散らない。
散らない花は新しい花を咲かせられない。森は枯れ始める。命が巡らない世界。
静かに、世界そのものが止まっていった。未来はそこで終わる。
青年は言葉を失った。
「どうして……。」
店主は静かに湯呑みを置く。
「死は終わりじゃない。」
「巡りだ。」
青年は顔を上げる。
「巡り……。」
「春があるから夏が来る。」
「夏が終われば秋になる。」
「秋が終われば冬。」
「冬が終わるから、また春が来る。」
店主は優しく笑った。
「命も同じだ。」
「終わるから、生まれる。」
青年は黙って聞いている。
「お前が命を奪ってるんじゃねぇ。」
「次の命へ繋いでるんだ。」
その言葉に青年の瞳から涙が零れた。
「でも……私は……。」
「怖い顔ばかり見られます。」
「ありがとうなんて言われたこと、一度もありません。」
店主は少し考えてから笑った。
「そりゃそうだ。」
「え?」
「死神見て笑える奴なんてそうそういねぇ。」
青年は思わず吹き出した。
「あ……。」
「笑った。」
店主が指をさす。青年は慌てて口元を押さえる。
「す、すみません。」
「謝ることじゃねぇ。」
「やっぱり笑った方がいい顔してる。」
青年は少し照れくさそうに笑った。
「一つだけ教えてやる。」
店主は立ち上がる。
「命を迎えに行く時な。」
「最後まで怖い顔するな。」
青年は首を傾げる。
「え?」
「ほんの少しだけ笑ってやれ。」
「安心する奴もいる。」
青年は目を丸くする。
「……そんなこと、考えたこともありませんでした。」
「死神だからって、冷たくいる必要はねぇ。」
「最後に見る顔が優しかったら。」
「救われる命もある。」
青年は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「少し……やってみます。」
青年は立ち上がる。店主へ一礼した。
「また来てもいいですか。」
「もちろん。」
「今度は仕事帰りに。」
「疲れたらラーメン食え。」
青年は柔らかく微笑んだ。その笑顔は、最初に店へ入ってきた時とはまるで別人だった。
暖簾をくぐる。鈴の音が一つ鳴る。
青年の姿は夜の闇へ溶けるように消えていった。
店主は静かに丼を洗う。
「命を繋ぐ奴も、大変だな。」
そう呟くと、屋台の外で一輪の彼岸花が風に揺れた。
花びらが一枚、店主の肩へ舞い降りる。
店主はそれをそっと摘み上げ、小さく笑った。
「……今夜は、少しだけ優しい風だ。」
路地裏には再び静かな夜が戻る。
暖簾は次の誰かを待つように、静かに揺れていた。




