5杯目 貧乏神は福を知らない
暖簾が夜風に揺れる。
今日も路地裏には、人通り一つない。店主は屋台の提灯に火を灯し、大きく伸びをした。
「さて……今日はどんな客が来るかな。」
そう呟いた時だった。ぐぅぅぅぅ……
静かな路地裏に、腹の虫の鳴く音が響いた。
店主は思わず吹き出す。
「腹の音だけは元気だな。」
音のした方を見ると、電柱の陰から一人の少女がこちらを覗いていた。
ぼさぼさの黒髪。少し大きめの着物。裸足。
どこか自信なさげにこちらを見つめている。少女と目が合うと、慌てて身を隠した。
店主は苦笑しながら声を掛ける。
「隠れても腹の音でバレてるぞ。」
少女はゆっくりと顔を出した。
「……ご、ごめんなさい。」
「謝ることじゃねぇよ。腹減ってるんだろ?」
少女はこくりと頷く。
「じゃあ、食ってけ。」
「えっ……でも、お金……。」
「そんなもん後でいい。」
「でも……。」
「腹減ってる時は、悩みも大きく見える。」
店主はそう言うと暖簾を持ち上げた。
「ほら、座んな。」
少女は少し迷ったあと、小さく頭を下げて席へ座った。
店主は寸胴鍋の蓋を開ける。湯気と一緒に、鶏と野菜の優しい香りが広がる。
麺を茹で、丁寧に湯切りをし、醤油だれを合わせる。最後に透き通った黄金色のスープを注ぎ、チャーシュー、メンマ、青ねぎをのせる。
店主は丼を少女の前へ置いた。
「お待ちどう。今日は醤油ラーメンだ。」
少女は目を丸くした。
「きれい……。」
「冷めるぞ。」
「い、いただきます。」
恐る恐る麺をすすった。その瞬間。
少女の表情が止まった。
「……お、おいしい。」
もう一口。さらにもう一口。
気付けば夢中になって食べていた。
最後の一滴まで飲み干し、大きく息を吐く。
「こんなに温かいご飯……久しぶり。」
店主は静かに笑った。
「そりゃ良かった。」
少し沈黙が流れる。店主は丼を見ながら尋ねた。
「それで?」
「え?」
「紹介がないとここへ来られない。」
少女は少し驚いた。
「どうして分かったの?」
「そういう店だからさ。」
少女は小さく笑う。
「わたしね……座敷わらしちゃんから聞いたの。」
店主は思わず吹き出した。
「やっぱりあいつか。」
「あの子、『困ったら絶対行って!』って。」
「営業してくれてんのか。」
少女は少し表情を曇らせた。
「……でも、本当に来てよかった。」
「悩みでもあるのか?」
少女はしばらく黙っていた。やがて、小さな声で言った。
「わたし……貧乏神なの。」
店主は「ああ」とだけ答えた。驚きもしない。少女は続ける。
「人の近くにいるだけで、お金がなくなったり、仕事がなくなったり、失敗したりする。」
「だから、みんなに嫌われる。」
「神社にも追い払われる。」
「妖怪にも近寄るなって言われる。」
少女は膝の上で手を強く握った。
「……わたしなんて、生まれてこなければよかった。」
店主は静かに聞いていた。否定もしない。慰めもしない。ただ聞く。
やがて店主は言った。
「それで?」
「え?」
「お前はどうしたい?」
貧乏神は戸惑う。
「どうしたい……?」
「誰かに決めてもらうんじゃない。」
「お前はどうなりたい?」
少女は目を閉じた。何度も考える。何度も。
そして小さく呟いた。
「……誰かを幸せにしたい。」
その瞬間。丼に残ったスープが静かに揺れた。水面が鏡のようになる。
未来が映り始めた。
━━ 一人の商人。裕福な男だった。
そこへ貧乏神が近付く。男は次々と仕事を失う。店も潰れる。
友人も離れていく。男は絶望した。
「なんで俺だけ……。」
何日も苦しむ。何度も失敗する。それでも諦めなかった。
小さな屋台を始めた。毎日笑顔で料理を作った。
客が一人。二人。十人。百人。
店は街一番の人気店になった。
ある日。男は空を見上げて笑う。
「あの時失ってよかった。」
「あれがなきゃ、今の俺はいない。」━━
未来はそこで途切れた。貧乏神は呆然としていた。
「……どういうこと?」
店主は腕を組む。
「貧乏は確かに苦しい。」
「でもな。」
「失うから見つかるものもある。」
少女は静かに聞いている。
「仕事を失う。」
「家を失う。」
「金を失う。」
「その先で初めて、本当にやりたいことを見つける奴もいる。」
「お前は不幸だけ運んでるんじゃない。」
「人生を変えるきっかけも運んでる。」
少女の目から涙が一粒落ちた。
「そんな風に言われたの……初めて。」
店主は笑う。
「福の神は幸せを運ぶ。」
「でもな。」
「幸せだけじゃ人は成長しねぇ。」
「貧乏神がいるから福の神も輝く。」
少女は少し考えてから言った。
「じゃあ……わたしにも意味があるの?」
店主は即答した。
「あたりめぇだ。」
「世界にいらねぇ神なんて、一柱もいねぇ。」
貧乏神は立ち上がった。さっきまでの暗い表情は消えていた。
「ありがとう。」
深く頭を下げる。
「また来てもいい?」
「ラーメン食いに来るなら歓迎だ。」
「相談じゃなくても?」
「腹が減ったら来い。」
少女は笑った。それは今まで誰にも見せたことがない、柔らかな笑顔だった。
「じゃあ、またね!」
軽い足取りで路地裏を駆けていく。その背中を店主は見送った。
「……貧乏神があんな笑顔するとはな。」
食器を洗いながら、小さく笑う。
すると屋台の隅に、一枚の古びた五円玉が落ちていた。店主はそれを拾い上げる。
「忘れ物か?」
そう思った次の瞬間。五円玉はふわりと光り、音もなく消えた。
店主は少しだけ空を見上げる。
「福ってのは、案外すぐ近くにあるもんだな。」
暖簾が静かに揺れる。
次の客を迎えられるように。




