3杯目 映らない海
のれんが揺れた。
風ではない。誰かがくぐろうとして、引っかかったのだ。
男「——っと、狭いな」
低い声が路地裏に響いた。店主がカウンターから顔を上げると、のれんの向こうに、やたらと大きな影が立っていた。
男だった。日に焼けた肌、太い首、盛り上がった肩。タンクトップにハーフパンツ、足元はビーチサンダル。首からは貝殻を通した紐がぶら下がっている。路地裏のラーメン屋台には、あまりにも似合わない格好だった。
男「ここ、ラーメン屋だよな?」
店主「そうだけど」
男「よかった。知り合いに聞いたんだよ。路地裏にうまいラーメン屋があるって」
男はのれんをぐいっと持ち上げて体をねじ込み、丸椅子にどかっと座った。椅子がぎしりと鳴る。カウンターに肘を乗せると、屋台全体が少し傾いた気がした。
店主は男を見上げた。見上げないと顔が見えない。座っていてもこの大きさだ。
人間ではない。それはすぐにわかった。潮の匂いがする。砂と塩と、深い水の底の匂い。この男は海の神だ。ただし、力の輪郭はしっかりしている。森の神のように弱ってはいない。弱っているのは力ではなく、もっと別のものだった。
店主「知り合いって、誰に聞いたの」
男「森の神。あいつ最近ちょっと元気になってさ、祠がどうとか花がどうとか嬉しそうに話してたんだけど、その流れで『悩んでるなら路地裏の屋台に行ってみなさい』って」
店主は心の中で少しだけ笑った。あの森の神が、誰かに屋台を紹介するくらいには元気になったらしい。
店主「ふうん。で、悩んでるの」
男「まあ……うん」
男は頭の後ろをがしがしと掻いた。大きな手だった。
男「ラーメン、先にもらっていいか。腹減ってて」
店主「いいよ。待ってて」
店主は麺を湯に落とした。湯切りの音が路地裏に響く。丼にスープを注ぎ、麺を落とし、チャーシューとネギと味玉を並べる。この客には飾りはいらない気がした。どかんと盛って、量を多めにした。
店主「はい」
丼が置かれた。男は「おお」と目を輝かせて、箸を取った。
豪快だった。麺を一口ですすり上げ、チャーシューを二口で食べ、味玉を丸ごと頬張る。スープをごくごくと飲む。屋台が揺れるんじゃないかと思うくらいの勢いだった。
男「うめえ!」
声が路地裏に反響した。
男「うめえなこれ。すげえうめえ」
店主「ありがと。で、何に悩んでるの?」
男は丼を置いて、ふうと息をついた。さっきまでの豪快さが、少しだけ静かになった。
男「……海がさ、汚れてんだよ」
店主「汚れてる?」
男「ゴミ。プラスチックとか、ビニールとか、わけわかんねえもんが浮いてんの。どこからともなく流れてきて、沈んで、海の底にも溜まってる。魚が食っちまうし、亀が絡まるし、珊瑚の上に被さって息ができなくなってる」
男は大きな手で丼を包んだ。
男「俺、海の神だからさ。海のことは全部見えるんだよ。波の下で何が起きてるか、どこに何が沈んでるか。全部見える。見えるのに、どうにもできねえ」
声が低くなった。大胆で明るい男の顔に、途方に暮れた影が差していた。
海の神「波で押し返しても、また流れてくる。潮で集めても、きりがねえ。俺一人でどうにかなる量じゃねえんだよ。毎日毎日増えてくんだ。俺が何百年もかけて育てた珊瑚が、ビニール袋一枚で死ぬんだぜ」
店主は黙って聞いていた。頬杖をついて、男の顔を見ている。
店主「……で、どうしたいの?」
海の神「どうしたいって……そりゃ、きれいにしたいよ。海を元に戻したい。でも——」
男は言葉を切った。眉を寄せて、何かを探すように宙を見つめる。
海の神「……どうすりゃいいのか、わかんねえんだよな」
その瞬間、丼の底のスープがかすかに——光らなかった。
光らなかった。
店主の目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。
スープは丼の底に薄く残ったまま、何も映さず、何も光らず、ただそこにある。
男は気づいていない。スープに何かが映るなんて知らないのだから、何も起きていないことにも気づかない。でも店主は知っている。今まで、スープは必ず何かを映した。良い未来も、最悪の未来も。何も映らないということは——初めてだった。
海の神「……どうした? ラーメン屋」
男が不思議そうに店主を見ている。店主はすぐにいつもの顔に戻った。
店主「いや。——ちょっと聞いていいか」
海の神「ん?」
店主「さっき、海をきれいにしたいって言ったよな。具体的にはどうするつもりだったの?」
男は首をかしげた。
海の神「具体的って……だから、それがわかんねえから悩んでるんだって」
店主「波で押し返すとか、潮で集めるとか、やったんだろ。それ以外に何か考えた?」
海の神「……考えた、けど。何を考えても、俺一人じゃどうにもなんねえって結論になるんだよ。ゴミを出してるのは人間だろ。俺がいくら片付けても、人間が出し続ける限り終わんねえ」
店主は小さく頷いた。
店主「そうだな。それ、たぶん正解だよ」
海の神「正解?」
店主「あんたが映らなかった理由」
男が怪訝な顔をした。
海の神「映るって、何が?」
店主はスープの残った丼を指さした。
店主「このスープ、食べ終わった後に未来が映るんだよ。あんたが『こうしたい』って強く思ったことを実際にやった場合の未来が。でも今回、何も映らなかった」
男は丼を覗き込んだ。スープは静かに揺れているだけだ。
海の神「……映るはずだったのか」
店主「うん。俺も映らなかったのは初めてだ」
店主はカウンターに頬杖をつき直した。
店主「一緒に考えていいか。なんで映らなかったのか」
海の神「……おう」
男は丼から目を上げて、店主を見た。小さなラーメン屋の店主が、真剣な顔で自分を見ている。
店主「あんたは海をきれいにしたいと思ってる。それは本当だ。でも、『自分がこうする』っていう具体的な形にはなってない。波で押し返すのも潮で集めるのも、もう意味がないってあんた自身がわかってるから。つまり——」
海の神「……俺の中に、やれると思ってる方法がないってことか」
店主「そう。思いはある。でも、その思いが行動の形になってない。だからスープにも映しようがなかった」
男は大きな手で顔を覆った。
海の神「……やっぱそうだよな。わかってたんだよ、薄々。俺一人でどうにかなる問題じゃねえって」
店主「うん。たぶんそれが答えだ」
店主は静かに言った。
店主「これは神様一人で帰れる問題じゃない」
男が顔を上げた。
海の神「帰れる?」
店主「解決できる、って意味。——俺は人間側の意見しか言えないけどさ」
店主はスープの表面をレンゲでゆっくりとなぞった。
店主「ゴミを出してるのは人間だろ。だったら、人間と一緒にやるしかないんじゃないか」
海の神「人間と? 俺が?」
店主「時間はかかるよ。すぐにはきれいにならない。でも、あんたが一人で波を起こして押し返すより、人間が一人ゴミを拾うほうが、たぶん海にとっては大きい」
男は黙って店主を見つめていた。
店主「あんたは海の全部が見えるんだろ。どこが汚れてて、どこが苦しんでるか。それを知ってるのはあんただけだ。人間にはそれが見えない。でも、見せることはできるんじゃないか。あんたのやり方で」
海の神「……俺のやり方」
店主「海が怒ってるんじゃなくて、海が泣いてるって伝わるようなやり方。あんたは大胆なやつだけど、心は優しいだろ。その優しさで海を見せたら、気づく人間はいると思うよ」
男の目が、少しだけ潤んだ。大きな体が、ほんの一瞬だけ小さく見えた。
海の神「……長い時間、かかるよな」
店主「かかる。でも、海はもともと気が長いだろ」
男はふっと笑った。大きな笑い声ではなく、静かな、でも確かな笑いだった。
海の神「……お前、ただのラーメン屋にしちゃ、いいこと言うな」
店主「ラーメン屋だからな。カウンター越しに話聞くのは得意なんだよ」
男は丼のスープを最後まで飲み干した。何も映らないスープを、それでも全部飲んだ。
海の神「ごちそうさん。うまかった」
店主「おう。またおいで」
男は丸椅子から立ち上がった。屋台の天井に頭がぶつかりそうになって、慌てて屈む。
海の神「狭いんだよここ」
店主「文句言うな。また来るなら頭気をつけろよ」
男はからからと笑って、のれんをくぐった。今度は引っかからなかった。ビーチサンダルのぺたぺたという音が路地裏に響いて、やがて潮の匂いと一緒に消えていった。
店主は丼を洗いながら、スープの残りを見つめた。何も映らなかった丼。
店主「……映らないことも、あるんだな」
独り言を呟いて、丼を拭いた。棚に戻す。カウンターの一輪挿しの花が、かすかに潮の香りを吸ったのか、少しだけ首を傾げているように見えた。
今日は風が強い。路地裏の奥まで、遠い波の音が聞こえる気がした。




