2杯目 森と祠と土砂の未来
その日、店主は屋台を引いて帰る途中だった。
いつもの路地裏から大通りへ抜ける細い道。街灯が一本だけ立っている角を曲がったところで、足を止めた。
塀に持たれるようにして、女が1人立っていた。
美しい人だった。長い黒髪が腰あたりまで流れていて、白い着物の裾が夜風に吹かれて揺れている。目を閉じて塀に背中を預けたまま動かない。眠っているようにも見えるし、立ったまま意識を失っているようにも見える。
店主は屋台の取っ手から手を離して、少しだけ目を細めた。
人間ではない。それはすぐにわかった。神だ。しかも、かなり弱っている。人間の目には美しい女性にしか見えないだろうが、店主の目には別のものが見えていた。この神を包んでいるはずの力の輪郭が、薄紙のように透けかかっている。森の匂いがする…土と苔と古い木の幹の匂い。
店主「ーーおい」
声をかけたが、返事はない。
店主「おい、あんた。こんなところで寝てると風邪ひくぞ」
女の目がゆっくりと開いた。深い緑色の瞳が、店主をぼんやりと見つめる。
女「……あら」
おっとりとした声だった。危機感がまるでない。
女「ごめんなさい。少し休んでいただけなの」
店主「少しって顔じゃないだろ。いつからここにいるんだ?」
女「……3日、くらいかしら」
店主は額に手を当てた。3日…この状態で3日。
店主「腹減ってるだろ?」
女「え?」
店主「ラーメン食うか?」
女はキョトンとした顔で店主を見た。それから、困ったように小さく笑った。
女「ラーメン……。いただけるの?」
店主「いいから座れ」
店主は屋台を引き返して、さっき片付けたばかりの路地裏にもう一度据えた。丸椅子を出し直し、火をつけ直した。寸胴の蓋を開ける、まだ温かい。
女は言われるままに丸椅子に腰を下ろした。座り方がどうも上品で、屋台の丸椅子には少し不釣り合いだった。
女「あなた、お名前は?」
店主「ラーメン屋。あんたは?」
女「……森についた名前はあるけれど、人に呼ばれたのは随分昔のことだから…なんでもいいわ」
店主は麺を湯に落としながら、横目で女を見た。穏やかな顔をしている。でも、その穏やかさの奥に、酷く疲れているものが沈んでいるのが見えた。
店主「あんた森の神だろ?」
女の目は、僅かに見開かれた。
森の神「……わかるの?」
店主「まぁ…なんとなく」
嘘だった。なんとなくではなく、はっきりとわかっている。でも今はそれでいい。
湯切りの音が路地裏に響く。丼にスープを注ぎ、麺を落とし、チャーシューとメンマ、白髪ネギを丁寧に並べた。背脂ではなく、仕上げに柚子の皮をほんの一片だけ添えた。森の匂いがする神様には、こっちのほうが合う気がした。
店主「はい、どうぞ」
丼が森の神の前に置かれた。湯気が立ち上がり、柚子の香りがふわりと広がる。
森の神は両手で丼を包むようにして、しばらく温もりを味わっていた。それから箸を取り、静かに麺をすすった。
森の神「……美味しい」
小さな声だった。でも、その一言に込められたものは重かった…。
森の神「美味しい…。こんなに温かいもの、久しぶり」
店主は何も言わずに、カウンターに頬杖ついた。
森の神はゆっくりと食べ進めた。座敷わらしのように泣きはしなかったが、箸を持つ手が時折止まって、じっとスープの表面を見つめていた。何かを思い出しているような、遠い目だった。
やがて麺を食べ終えて、箸を置いた。
森の神「……ごちそうさま」
店主「うん。で、何があったの?」
店主の声は穏やかだった。急かさない。同情しない。ただ聞く。
森の神はスープの残った丼を両手で包んだまま、静かに話し始めた。
森の神「私の森がね。少しずつなくなってるの
百年前は山の麓から山頂まで、深い緑が続いていた。祠があって、麓の村の人たちが季節ごとに手入れをしてくれた。注連縄を張り替え、榊を供え、落ち葉をは掃いてくれた。あの頃は力が満ちていて、森は豊かで、動物達も水も土も、全てが巡っていた。
でも村は町になって、町は街になった。
山の木を切りに来る人が来るようになったの。最初は少しだけだったのに、だんだん増えて……。
祠に来る人もいなくなった。注連縄は朽ちて、屋根は崩れかけている。森の神の力は、信仰と森の命に結びついている。どちらも失われれば、神もまた消えてゆく。
わたし…止めたいの。伐採を止めたい。あの森を守りたい。」
その言葉に、力がこもっていた。おっとりとした声の奥に、はっきりとした意志があった。
森の神「あの森にはね、私が大切にしてきたものが全部あるの。木も、水も、動物たちも。それに…」
森の神は少し言葉を切った。
森の神「祠を手入れしてくれていた人達の子孫が、まだあの町に住んでいるの。あの人たちのことが、好きなの。ずっと見守ってきたから…」
店主は黙って聞いていた。
森の神「だから止めたい。伐採を止めて、森を元に戻したい。私の力で…」
その瞬間、丼のスープが微かに光った。
森の神が目を落とす。スープの表面に、映像が浮かんでいた。
───森の中。伐採の重機が並んでいる。森の神が木々の前に立ちはだかるが、作業員達には見えていない。声も届かない。何度叫んでも、手を伸ばしても、人間たちは機械を動かし続ける。
森の神の目に怒りが灯る。大地が震え、山の斜面が崩れ始める。土砂が轟音と共に流れ落ちていく。
麓の町。逃げ惑う人々。その中に、見覚えのある顔がある。祠を手入れしてくれていたあの人の孫。あの人のひ孫。土砂に呑まれていく。
そして——荒れ果てた山の跡地に、工事のフェンスが立てられている。「危険区域につき立入禁止」の看板。森はもうどこにもない。
映像が消えた。
森の神の顔から、すべての色が消えていた。
丼を包んでいた手が震えている。唇が何かを言おうとして、言葉にならない。
森の神「……わたしが……わたしのせいで……」
あの人たちを守りたかったのに。あの人たちが死んでしまう。自分の怒りで。自分の力で。そして森すら残らない。
森の神「……どうしたらいいの」
声が震えていた。おっとりとした穏やかさは消えて、そこにいるのはただ途方に暮れた、ひとりの神だった。
店主はしばらく黙っていた。
それから、カウンターの頬杖を外して、少しだけ姿勢を正した。いつもの気だるい雰囲気が、ほんの一瞬だけ変わった。
店主「——あのさ」
森の神「……なに」
店主「俺、実はラーメン屋じゃないんだよね」
森の神がぼんやりと店主を見た。涙で滲んだ緑の瞳に、小さな店主の姿が映っている。
森の神「……どういうこと?」
店主「この世界を作ったやつ。まあ、神っていうか、大元っていうか」
森の神の目が大きく見開かれた。信じられないという顔。目の前の、袖が長すぎる割烹着を着た、少年とも少女ともつかないこの子どもが——。
森の神「嘘……」
店主「嘘じゃないよ。まあ、信じなくてもいいけど」
店主はひょいと肩をすくめた。それから、少しだけ真面目な顔になった。
店主「あんたの気持ちはわかる。でも、力で止めようとしても、あんたが見た通りになる。あんたの力は今、怒りに使えるほど残ってない。無理に使えば暴走する。そうなったら、あんたが一番大事にしてるものを自分で壊すことになる」
森の神は唇を噛んだ。スープに映った未来が、まだ目の奥にこびりついている。
森の神「じゃあ……わたしはどうすればいいの。何もできないの?」
店主「できるよ。順番が違うだけだ」
店主はレンゲでスープの残りをくるりとかき混ぜた。
店主「まず、あんた自身の力を戻すこと。森が減っても、あんたの祠はまだある。崩れかけてるけど、ある。あそこを起点にして、少しずつ力を取り戻せ」
森の神「でも、祠を手入れしてくれる人がもういないのよ」
店主「だから、それも作るんだよ」
店主はにっと笑った。
店主「あんたの祠がある町に、まだあの人たちの子孫が住んでるんだろ。あの人たちに、祠のことを思い出してもらえばいい。森の神様がいるってことを、もう一度知ってもらえばいい」
森の神「……でも、わたしの声は人間には届かない」
店主「声じゃなくていいんだよ。あんた、森の神だろ。風を吹かせることくらいはまだできるんじゃないか。祠の近くに花を咲かせるとか、木漏れ日をきれいに落とすとか。あんたらしいやり方で、あの場所が特別だって気づかせればいい」
森の神は目を丸くして店主を見つめていた。
店主「力で止めるんじゃなくて、あんたがあんたらしくいることで、人の心を動かすんだ。時間はかかる。でも、あんたが見た未来よりはずっといい」
森の神の震えが、少しずつ止まっていった。
森の神「……あなた、本当に創造主なの?」
店主「だから言ったろ」
森の神「ラーメン屋にしか見えないわ」
店主「よく言われる」
店主はけらけらと笑った。森の神も、つられるように小さく笑った。泣いた後の、少しだけ軽くなった笑い方だった。
森の神は丼のスープを最後の一口まで飲み干して、丼をそっとカウンターに戻した。
森の神「……ごちそうさまでした。ラーメン、本当においしかった」
店主「おう。あと、これ」
店主はカウンターの下からなにかを取り出した。小さな包みだった。開けると、中には干し椎茸が入っている。
店主「祠に供えとけ。まあ、おまじないみたいなもんだ」
森の神は不思議そうに包みを受け取った。干し椎茸から、かすかに温かい力が伝わってくる。創造主の力が、ほんの少しだけ込められていた。
森の神「……ありがとう。ラーメン屋さん」
店主「ラーメン屋でいいよ、それで」
森の神は丸椅子から立ち上がった。来たときよりも、背筋がほんの少しだけ伸びていた。白い着物の裾を夜風になびかせながら、路地裏の出口へ向かう。
店主「あ、そうだ」
店主が声をかけた。森の神が振り返る。
店主「さっきの話、誰にも言うなよ。俺が創造主だってこと」
森の神「……どうして?」
店主「面倒くさいから」
森の神はくすりと笑った。
森の神「わかったわ。誰にも言わない」
その言葉が夜の空気に溶けた瞬間、森の神の唇にかすかな光が走った。約束が、静かに結ばれた。
足音が遠ざかっていく。草履の音が石畳に響いて、やがて聞こえなくなった。
店主は丼を洗いながら、鼻歌を歌っていた。さっきまでの真面目な顔はもうどこにもない。
店主「——干し椎茸、あれ最後の一個だったんだよな」
独り言を呟いて、少しだけ惜しそうな顔をした。でもすぐに、にっと笑った。
柚子の香りがまだかすかに残る路地裏で、屋台の灯りが静かに揺れている。




