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世界を創った神ですが、悩める客にラーメンを出していたら世界を救うことになりました。  作者: 霜月 羽流


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2/20

2杯目 森と祠と土砂の未来

その日、店主は屋台を引いて帰る途中だった。


いつもの路地裏から大通りへ抜ける細い道。街灯が一本だけ立っている角を曲がったところで、足を止めた。


塀に持たれるようにして、女が1人立っていた。


美しい人だった。長い黒髪が腰あたりまで流れていて、白い着物の裾が夜風に吹かれて揺れている。目を閉じて塀に背中を預けたまま動かない。眠っているようにも見えるし、立ったまま意識を失っているようにも見える。


店主は屋台の取っ手から手を離して、少しだけ目を細めた。


人間ではない。それはすぐにわかった。神だ。しかも、かなり弱っている。人間の目には美しい女性にしか見えないだろうが、店主の目には別のものが見えていた。この神を包んでいるはずの力の輪郭が、薄紙のように透けかかっている。森の匂いがする…土と苔と古い木の幹の匂い。


店主「ーーおい」


声をかけたが、返事はない。


店主「おい、あんた。こんなところで寝てると風邪ひくぞ」


女の目がゆっくりと開いた。深い緑色の瞳が、店主をぼんやりと見つめる。


女「……あら」


おっとりとした声だった。危機感がまるでない。


女「ごめんなさい。少し休んでいただけなの」


店主「少しって顔じゃないだろ。いつからここにいるんだ?」


女「……3日、くらいかしら」


店主は額に手を当てた。3日…この状態で3日。


店主「腹減ってるだろ?」


女「え?」


店主「ラーメン食うか?」


女はキョトンとした顔で店主を見た。それから、困ったように小さく笑った。


女「ラーメン……。いただけるの?」


店主「いいから座れ」


店主は屋台を引き返して、さっき片付けたばかりの路地裏にもう一度据えた。丸椅子を出し直し、火をつけ直した。寸胴の蓋を開ける、まだ温かい。


女は言われるままに丸椅子に腰を下ろした。座り方がどうも上品で、屋台の丸椅子には少し不釣り合いだった。


女「あなた、お名前は?」


店主「ラーメン屋。あんたは?」


女「……森についた名前はあるけれど、人に呼ばれたのは随分昔のことだから…なんでもいいわ」


店主は麺を湯に落としながら、横目で女を見た。穏やかな顔をしている。でも、その穏やかさの奥に、酷く疲れているものが沈んでいるのが見えた。


店主「あんた森の神だろ?」


女の目は、僅かに見開かれた。


森の神「……わかるの?」


店主「まぁ…なんとなく」


嘘だった。なんとなくではなく、はっきりとわかっている。でも今はそれでいい。


湯切りの音が路地裏に響く。丼にスープを注ぎ、麺を落とし、チャーシューとメンマ、白髪ネギを丁寧に並べた。背脂ではなく、仕上げに柚子の皮をほんの一片だけ添えた。森の匂いがする神様には、こっちのほうが合う気がした。


店主「はい、どうぞ」


丼が森の神の前に置かれた。湯気が立ち上がり、柚子の香りがふわりと広がる。


森の神は両手で丼を包むようにして、しばらく温もりを味わっていた。それから箸を取り、静かに麺をすすった。


森の神「……美味しい」


小さな声だった。でも、その一言に込められたものは重かった…。


森の神「美味しい…。こんなに温かいもの、久しぶり」


店主は何も言わずに、カウンターに頬杖ついた。


森の神はゆっくりと食べ進めた。座敷わらしのように泣きはしなかったが、箸を持つ手が時折止まって、じっとスープの表面を見つめていた。何かを思い出しているような、遠い目だった。


やがて麺を食べ終えて、箸を置いた。


森の神「……ごちそうさま」


店主「うん。で、何があったの?」


店主の声は穏やかだった。急かさない。同情しない。ただ聞く。


森の神はスープの残った丼を両手で包んだまま、静かに話し始めた。


森の神「私の森がね。少しずつなくなってるの


百年前は山の麓から山頂まで、深い緑が続いていた。祠があって、麓の村の人たちが季節ごとに手入れをしてくれた。注連縄(しめなわ)を張り替え、榊(さかき)を供え、落ち葉をは掃いてくれた。あの頃は力が満ちていて、森は豊かで、動物達も水も土も、全てが巡っていた。


でも村は町になって、町は街になった。

山の木を切りに来る人が来るようになったの。最初は少しだけだったのに、だんだん増えて……。


祠に来る人もいなくなった。注連縄は朽ちて、屋根は崩れかけている。森の神の力は、信仰と森の命に結びついている。どちらも失われれば、神もまた消えてゆく。


わたし…止めたいの。伐採を止めたい。あの森を守りたい。」


その言葉に、力がこもっていた。おっとりとした声の奥に、はっきりとした意志があった。


森の神「あの森にはね、私が大切にしてきたものが全部あるの。木も、水も、動物たちも。それに…」


森の神は少し言葉を切った。


森の神「祠を手入れしてくれていた人達の子孫が、まだあの町に住んでいるの。あの人たちのことが、好きなの。ずっと見守ってきたから…」


店主は黙って聞いていた。


森の神「だから止めたい。伐採を止めて、森を元に戻したい。私の力で…」


その瞬間、丼のスープが微かに光った。


森の神が目を落とす。スープの表面に、映像が浮かんでいた。


───森の中。伐採の重機が並んでいる。森の神が木々の前に立ちはだかるが、作業員達には見えていない。声も届かない。何度叫んでも、手を伸ばしても、人間たちは機械を動かし続ける。


森の神の目に怒りが灯る。大地が震え、山の斜面が崩れ始める。土砂が轟音と共に流れ落ちていく。


麓の町。逃げ惑う人々。その中に、見覚えのある顔がある。祠を手入れしてくれていたあの人の孫。あの人のひ孫。土砂に呑まれていく。


そして——荒れ果てた山の跡地に、工事のフェンスが立てられている。「危険区域につき立入禁止」の看板。森はもうどこにもない。


映像が消えた。


森の神の顔から、すべての色が消えていた。


丼を包んでいた手が震えている。唇が何かを言おうとして、言葉にならない。


森の神「……わたしが……わたしのせいで……」


あの人たちを守りたかったのに。あの人たちが死んでしまう。自分の怒りで。自分の力で。そして森すら残らない。


森の神「……どうしたらいいの」


声が震えていた。おっとりとした穏やかさは消えて、そこにいるのはただ途方に暮れた、ひとりの神だった。


店主はしばらく黙っていた。


それから、カウンターの頬杖を外して、少しだけ姿勢を正した。いつもの気だるい雰囲気が、ほんの一瞬だけ変わった。


店主「——あのさ」


森の神「……なに」


店主「俺、実はラーメン屋じゃないんだよね」


森の神がぼんやりと店主を見た。涙で滲んだ緑の瞳に、小さな店主の姿が映っている。


森の神「……どういうこと?」


店主「この世界を作ったやつ。まあ、神っていうか、大元っていうか」


森の神の目が大きく見開かれた。信じられないという顔。目の前の、袖が長すぎる割烹着を着た、少年とも少女ともつかないこの子どもが——。


森の神「嘘……」


店主「嘘じゃないよ。まあ、信じなくてもいいけど」


店主はひょいと肩をすくめた。それから、少しだけ真面目な顔になった。


店主「あんたの気持ちはわかる。でも、力で止めようとしても、あんたが見た通りになる。あんたの力は今、怒りに使えるほど残ってない。無理に使えば暴走する。そうなったら、あんたが一番大事にしてるものを自分で壊すことになる」


森の神は唇を噛んだ。スープに映った未来が、まだ目の奥にこびりついている。


森の神「じゃあ……わたしはどうすればいいの。何もできないの?」


店主「できるよ。順番が違うだけだ」


店主はレンゲでスープの残りをくるりとかき混ぜた。


店主「まず、あんた自身の力を戻すこと。森が減っても、あんたの祠はまだある。崩れかけてるけど、ある。あそこを起点にして、少しずつ力を取り戻せ」


森の神「でも、祠を手入れしてくれる人がもういないのよ」


店主「だから、それも作るんだよ」


店主はにっと笑った。


店主「あんたの祠がある町に、まだあの人たちの子孫が住んでるんだろ。あの人たちに、祠のことを思い出してもらえばいい。森の神様がいるってことを、もう一度知ってもらえばいい」


森の神「……でも、わたしの声は人間には届かない」


店主「声じゃなくていいんだよ。あんた、森の神だろ。風を吹かせることくらいはまだできるんじゃないか。祠の近くに花を咲かせるとか、木漏れ日をきれいに落とすとか。あんたらしいやり方で、あの場所が特別だって気づかせればいい」


森の神は目を丸くして店主を見つめていた。


店主「力で止めるんじゃなくて、あんたがあんたらしくいることで、人の心を動かすんだ。時間はかかる。でも、あんたが見た未来よりはずっといい」


森の神の震えが、少しずつ止まっていった。


森の神「……あなた、本当に創造主なの?」


店主「だから言ったろ」


森の神「ラーメン屋にしか見えないわ」


店主「よく言われる」


店主はけらけらと笑った。森の神も、つられるように小さく笑った。泣いた後の、少しだけ軽くなった笑い方だった。


森の神は丼のスープを最後の一口まで飲み干して、丼をそっとカウンターに戻した。


森の神「……ごちそうさまでした。ラーメン、本当においしかった」


店主「おう。あと、これ」


店主はカウンターの下からなにかを取り出した。小さな包みだった。開けると、中には干し椎茸が入っている。


店主「祠に供えとけ。まあ、おまじないみたいなもんだ」


森の神は不思議そうに包みを受け取った。干し椎茸から、かすかに温かい力が伝わってくる。創造主の力が、ほんの少しだけ込められていた。


森の神「……ありがとう。ラーメン屋さん」


店主「ラーメン屋でいいよ、それで」


森の神は丸椅子から立ち上がった。来たときよりも、背筋がほんの少しだけ伸びていた。白い着物の裾を夜風になびかせながら、路地裏の出口へ向かう。


店主「あ、そうだ」


店主が声をかけた。森の神が振り返る。


店主「さっきの話、誰にも言うなよ。俺が創造主だってこと」


森の神「……どうして?」


店主「面倒くさいから」


森の神はくすりと笑った。


森の神「わかったわ。誰にも言わない」


その言葉が夜の空気に溶けた瞬間、森の神の唇にかすかな光が走った。約束が、静かに結ばれた。


足音が遠ざかっていく。草履の音が石畳に響いて、やがて聞こえなくなった。


店主は丼を洗いながら、鼻歌を歌っていた。さっきまでの真面目な顔はもうどこにもない。


店主「——干し椎茸、あれ最後の一個だったんだよな」


独り言を呟いて、少しだけ惜しそうな顔をした。でもすぐに、にっと笑った。


柚子の香りがまだかすかに残る路地裏で、屋台の灯りが静かに揺れている。


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