#1杯目 始まりの一杯
はじめまして。
この作品を開いていただき、ありがとうございます。
『世界を創った神ですが、悩める客にラーメンを出していたら世界を救うことになりました。』は、人間だけでなく、妖怪や神様、そしてこの世界に存在するあらゆる「もの」たちが訪れる、小さなラーメン屋台のお話です。
ここへ来る客は、皆それぞれ悩みを抱えています。
店主はただラーメンを作り、話を聞き、食べ終わった丼に映る「未来」をそっと見せるだけ。
未来は決して運命ではありません。
その人が「こうなりたい」と願い、一歩踏み出した先にある可能性です。
少し疲れた夜に、温かいラーメンを食べるような気持ちで読んでいただけたら嬉しいです。
それでは、世界を創った神ですが、悩める客にラーメンを出していたら世界を救うことになりました。へようこそ。
湯気が夜に溶けていく。
路地裏の奥の奥、街灯の明かりすら届かない行き止まりに、小さな屋台がぽつんと灯りを点していた。のれんには「らぁめん」とだけ。座席は三つ。丸椅子がきちんと並んでいて、カウンターの上には割り箸の筒と、なぜか一輪挿しの花が置いてある。
屋台の中で、店主がスープの味見をしていた。
見た目は十四、五くらいだろうか。少年のようでもあり、少女のようでもある。くりっとした目に、肩にかからない程度の髪。白い割烹着を着ているのだが、袖が長すぎて指先がほとんど隠れている。その袖をぱたぱたさせながら、小さなレンゲでスープをすくっては首をかしげ、塩を足しては頷き、また首をかしげている。
「——うん。今日はいい出来」
誰に言うでもなくそう呟いて、店主は満足そうに笑った。
客は来ない。この路地裏は、誰かに教えてもらわなければたどり着けない場所だ。だから当然、今夜も静かなはずだった。
ことり、と音がした。
屋台の脇、ゴミ箱の陰に何かが倒れている。店主がカウンターから身を乗り出して目を凝らすと、それは小さな子どもだった。着物姿の、五つか六つくらいの子ども。顔は真っ青で、息も絶え絶えで、ぼろぼろの着物の裾を握りしめたまま動かない。
店主はのれんをくぐって外に出た。
「おい、大丈夫か」
返事はない。店主はしゃがみこんで子どもの額に手を当てた。ひどく冷たい。人間ではない。それはすぐにわかった。この子は座敷わらしだ。家に住み着いて繁栄をもたらす存在——のはずだが、今はその気配すら薄れかけている。存在の灯が、消えかかっていた。
「……腹、減ってるだろ」
店主は子どもを抱き上げた。見た目の割にやけに軽い。丸椅子にそっと座らせて、割烹着の袖で子どもの顔を拭いてやった。
「ラーメン、食えるか」
子どもの目がうっすらと開いた。焦点の合わない瞳が、湯気の向こうの店主をぼんやりと捉える。
「……おばあちゃん?」
「違う違う。おばあちゃんじゃない。ラーメン屋」
店主はさっさとカウンターの中に戻ると、麺を茹で始めた。手際がいい。湯切りの音が夜の路地裏に小気味よく響く。丼にスープを注ぎ、麺を落とし、チャーシューとネギと煮卵を丁寧に並べる。最後にスープの表面に、ほんの少しだけ背脂を散らした。
「はい、どうぞ」
丼が子どもの前に置かれた。湯気がふわりと立ち上り、座敷わらしの青白い顔を温かく包む。
子どもは震える手で箸を取った。一口、麺をすする。
「…………」
涙がぽろぽろとこぼれた。
箸を持つ手は震えたままだったが、口は止まらなかった。二口、三口、夢中で麺をすすり、スープを飲み、チャーシューにかぶりつく。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも食べることをやめない。
店主は何も言わず、カウンターに頬杖をついてその様子を眺めていた。
やがて子どもが箸を置いた。丼の中身はきれいに空になっている。スープだけが底に薄く残っていた。
「……ごちそうさまでした」
小さな声だった。でも、さっきよりずっとしっかりしている。顔色も少しだけ戻っていた。
「うん。で、どうしたの。こんなところで倒れて」
店主が聞くと、座敷わらしはしばらく黙っていた。それから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「わたしのおうち……おばあちゃんのおうちが、壊されちゃうの」
百年以上、その家に住んでいた。おばあちゃんだけが自分の存在を知っていて、毎晩お茶を淹れてくれた。縁側で一緒に月を見た。おばあちゃんは「あんたがいるから、この家はあったかいんだよ」と言ってくれた。
でもおばあちゃんは死んでしまった。息子も孫も、座敷わらしの存在を知らない。古くなった家を取り壊して、新しい家を建てるらしい。
「わたし、おばあちゃんとの思い出がいっぱいあるあのおうちがなくなっちゃうのが怖いの。でも息子さんたちはわたしのこと見えないし、声も届かないし……」
「それで、どうしたいの」
店主の声は穏やかだった。急かすでもなく、同情するでもなく、ただ聞いている。
座敷わらしは鼻をすすって、それから少し考えて、言った。
「……息子さんたちに、わたしがいるって気づいてほしい。おばあちゃんが大事にしてたこのおうちを、わたしも大事にしてるって知ってほしい。そしたら、もしかしたら壊さないでくれるかもしれないから」
その言葉を聞いた瞬間、丼の底のスープがかすかに光った。
座敷わらしが驚いて丼を覗き込む。薄く残ったスープの表面に、映像が浮かんでいた。
——あの家の居間。息子が古い箪笥を整理している。引き出しの奥から、おばあちゃんの日記が出てくる。そこには座敷わらしのことが書いてあった。「うちにはざしきわらしがいる。小さくて泣き虫で、でもとてもあったかい子」。息子はその文字を読んで、手を止める。隣で孫が「ざしきわらし?」と聞く。その夜、息子は取り壊しの業者に電話をかける。「すみません、少し待ってもらえますか」——
映像はそこで消えた。
座敷わらしは丼を両手で抱えたまま、目を丸くしていた。
「……これ、ほんとうになるの?」
「さあ。それはお前次第だよ」
店主はレンゲでスープの残りをすくうように促した。
「お前が『こうしたい』って強く思ったことをやったら、こうなるかもねっていう未来。おばあちゃんの日記、どこにあるか知ってるだろ」
座敷わらしの目が大きく見開かれた。知っている。おばあちゃんがいつも寝る前に書いていた、あの古い日記帳。箪笥の一番奥の、着物の下に隠してあった。
「わたしが引き出しを開けて、日記を見つけやすいところに置いたら……」
「そういうこと」
店主はにっと笑った。いたずらっ子みたいな笑い方だった。
座敷わらしは丼をそっとカウンターに戻すと、丸椅子から降りた。さっきまでの青白い顔はもうどこにもない。小さな頬にはうっすらと赤みが差していて、目にはしっかりと光が戻っていた。
「ラーメン、ごちそうさまでした。すごくおいしかった」
「おう。またおいで」
座敷わらしはぺこりと頭を下げて、路地裏の暗がりに駆けていった。小さな足音がとたとたと遠ざかって、やがて聞こえなくなる。
店主は丼を洗いながら、ふと空を見上げた。路地裏の隙間から、細い月が覗いている。
「——ま、悪くないか。これも」
世界の秩序を保つことに比べたら、ラーメンを作って話を聞くくらい、なんてことはない。でも、あの子がスープを飲み干したときの顔は、秩序がどうとかいう話とは全然違う場所にあるものだった。
店主は丼を拭き終えると、カウンターの一輪挿しの花の向きを少しだけ直した。
明日も誰か来るだろうか。来なくてもいい。来てもいい。
湯気が夜に溶けていく。路地裏の小さな屋台は、今日も静かに灯りを点している。
第一話を読んでいただき、本当にありがとうございました。
『世界を創った神ですが、悩める客にラーメンを出していたら世界を救うことになりました。』は、一話完結を基本とした連作短編です。
人間、妖怪、神様、ときには「時間」や「運命」のような存在まで、この屋台にはさまざまなお客さんがやって来ます。
一杯のラーメンを食べながら悩みを打ち明け、最後のスープに映る未来を見る――そんな静かな物語を少しずつ積み重ねていけたらと思っています。
店主には、まだ誰にも話していない秘密があります。
そして、座敷わらしにも、いずれ物語の大きな鍵となる役目があります。
この先もゆっくりと、路地裏の屋台を見守っていただけたら嬉しいです。
もし「続きが読みたい」「この客の話が見てみたい」と思っていただけたら、ブックマークや感想をいただけると、とても励みになります。
それでは、また次の夜に。
世界を創った神ですが、悩める客にラーメンを出していたら世界を救うことになりました。でお待ちしています。




