13杯目 夢は終わっていなかった
夜も更け、人通りはとうに途絶えていた。
路地裏の奥にある小さな屋台だけが、提灯の明かりを静かに灯している。
ぐつぐつと煮える寸胴鍋。
醤油の香ばしい匂い。
その温かな空気だけが、夜の冷たさを忘れさせてくれた。
店主はカウンターを拭きながら、小さく欠伸をする。
「今日は静かだな。」
そう呟いた、その時だった。
コツ……コツ……。
ゆっくりとした足音が近づいてくる。
暖簾の前で足音は止まった。
しかし、なかなか中へ入ってこない。店主は暖簾越しに声を掛ける。
「寒いぞ。入らねぇのか?」
しばらく沈黙が続く。
やがて暖簾が静かに揺れ、一人の男が姿を現した。
四十代半ばほどだろうか、少し伸びた髪、無精ひげ、くたびれたスーツ。
肩から提げた古びたビジネスバッグ、疲れ切った目だけが妙に印象に残る。
店主は男を見るなり笑った。
「ずいぶん疲れた顔してんな。」
男は苦笑した。
「……そう見えるか。」
「鏡見なくても分かる。」
「はは……。」
男は小さく笑ったが、その笑顔には元気がなかった。
席へ腰掛けると、大きく息を吐く。
「ここが噂の屋台か。」
店主は鍋へ向かう。
「誰から聞いた?」
「会社の後輩だ。昔ここで相談したら人生変わったって。」
店主は思わず笑う。
「大げさだな。」
「俺もそう思った。」
「でも。」
男は屋台を見回す。
「最後に誰かへ話を聞いてほしかった。」
店主はその言葉に少しだけ表情を変えた。
「そうか、じゃあまずは腹ごしらえだ。何が食べたい?」
男は少し考えた。
「おすすめで。」
「任せろ。」
店主は冷蔵庫から豚肉を取り出す。
今日は昔ながらの醤油ラーメンだった。鶏ガラと豚骨をじっくり炊いた澄んだスープ。
細麺、厚めのチャーシュー、煮卵、刻みねぎ。
最後に黒胡椒を少しだけ振る。
「お待ち。」
男は丼を見つめる。
「……うまそうだ。」
「冷める前に食え。」
「いただきます。」
男はゆっくり麺をすすった。
「……。」
次の瞬間、目を丸くする。
「うまい。」
「だろ。」
「こんなラーメン……何年ぶりだろう。」
男は少しずつ、味わうように食べ続けた。
その表情は、仕事帰りの疲れた会社員ではなく、どこか少年のようだった。
店主は何も言わず、その様子を見守っていた。
やがて最後のスープまで飲み干す。
「ごちそうさま。」
「うまかった。」
店主は空になった丼を受け取り、お茶を差し出した。
「それで。」
「何に悩んでる?」
男はしばらく黙っていた。
湯呑みを両手で包みながら、小さく笑う。
「笑うなよ。」
「笑わねぇ。」
「約束できるか?」
「できる。」
男はゆっくり頷いた。
「俺さ。昔、絵描きになりたかったんだ。」
店主は静かに耳を傾ける。
「子どもの頃から絵を描くのが好きだった。高校も、美術大学も目指した。でも親に反対されてな『絵じゃ食っていけない。』『普通に就職しろ。』『夢なんて子どものうちだけだ。』」
男は苦笑した。
「結局、普通の会社へ就職した、気づけば二十年以上。毎日会社へ行って、帰って寝るだけ。結婚もした、子どももいる。それなりに幸せなんだ。」
そこで言葉が止まる。
「……でも。」
男は自分の手を見つめた。
「この手を見るたび思う。まだ描きたいって今さらだよな。」
店主は何も言わない。
男は続ける。
「四十五歳…もう若くない、プロになれるわけでもない。家族もいる、だったら夢なんて忘れた方がいい。そう思って何度も筆を捨てた。」
男は笑った。
「なのに、忘れられない。」
屋台には静かな時間が流れる。
店主はゆっくりと空になった丼を男の前へ置いた。
「……見てみるか。」
男は静かに頷く。
黄金色のスープに、小さな波紋が広がっていく。
やがて、その水面には一つの未来が映り始めた――。
黄金色のスープに、小さな波紋が広がる。
男は息を呑みながら、その水面を見つめた。
やがて、一つの景色が静かに映し出される。
━━小さな会社の事務所。
壁の時計は午後九時を指している。
薄暗い室内には、男が一人だけ残っていた。
パソコンの画面をぼんやり眺め、書類に判を押していく。
机の引き出しには、一冊の古いスケッチブック。
男はそれを一度だけ見つめる。
しかし、手に取ることなく引き出しを閉めた。
「帰るか……。」
誰に聞かせるでもない独り言。家へ帰る。
「ただいま。」
「おかえり。」
妻が夕飯を温め直してくれる。
子どもはもう大学生になり、家を出ていた。
食卓には静かな時間だけが流れる。
「今日も仕事?」
「ああ。」
「大変ね。」
「まぁな。」
会話は、それだけだった。
景色が変わる。十年後。
男の髪は真っ白になっていた。定年退職の日。
同僚たちから花束を受け取る。
「長い間、お疲れさまでした!」
拍手が響く。男も笑顔で頭を下げる。
「ありがとう。」
その顔は笑っていた。でも、その目だけは少し寂しかった。
また景色が変わる。男は自宅の押し入れを整理していた。
奥から埃をかぶった段ボールを取り出す。中には、何十年も前のスケッチブック。
絵筆、絵の具、描きかけのキャンバス。男はゆっくりとスケッチブックを開く。
そこには高校生の頃、自分が描いた風景画があった。
「……。」
男の手が震える。
「そうだった。俺……絵描きになりたかったんだ。」
ぽたり。一滴の涙が紙の上へ落ちる。
男は静かに呟く。
「遅かったな……。」
誰もいない部屋に、その声だけが響いた。
そのまま景色はゆっくりと消えていく━━
スープは静かに元の黄金色へ戻った。
男はしばらく動かなかった。
「俺か……。」
その声は震えていた。
「これが……夢を諦めた未来。」
店主は静かに頷いた。
「そうだ。」
男は俯き、拳を強く握る。
「家族を選んだ、仕事も頑張った。後悔なんてしないって思ってた、なのに……どうして涙なんか。」
店主は湯呑みに温かいお茶を注ぎ、男の前へ置いた。
「飲め。」
男は静かに湯呑みを持ち、一口飲む。
体だけでなく、心まで温まるようだった。
店主はゆっくりと言葉を選ぶ。
「お前さ、夢を勘違いしてる。」
男は顔を上げる。
「勘違い?」
「夢は仕事になることだけじゃねぇ。」
男は黙って聞いている。
「絵描きになれなかった、それは事実だ。でも絵を描いちゃいけない理由にはならねぇ。」
男は目を見開く。
「……。」
「誰が決めた?四十五歳だから描いちゃいけないって。」
男は何も答えられない。
「誰が決めた?会社員だから描いちゃいけないって。」
男は首を横に振る。
「誰も……。」
「そうだ。」
店主は優しく笑う。
「誰も決めてねぇ。」
男は静かに呟く。
「でも、プロにはなれない…有名にもなれない。」
店主は少し笑った。
「じゃあ聞く。お前は、有名になるために絵を描いてたのか?」
その一言に、男の時間が止まる。
子どもの頃。学校の帰り道。家の庭。夢中で空を描いていた自分。
賞なんて関係なかった。誰かに褒められるためでもなかった。
ただ…
描くことが楽しかった。それだけだった。
男の目から涙が溢れる。
「違う……楽しかった。ただ、それだけだった。」
店主は静かに頷く。
「だったら、また描けばいい。一枚でも、十分だ。」
男は涙を拭う。
「でも家族は……。」
「話せ。」
「え?」
「隠すから苦しくなる。『もう一度描きたい』って正直に言えばいい。」
男は苦笑した。
「怒られるかな。」
「分からん。」
「でも。」
店主は笑う。
「何も言わず諦めるよりはずっといい。」
男は大きく息を吐いた。
胸の奥につかえていたものが、少しずつほどけていく。
「俺…帰ったら。スケッチブック探してみる。それがいい。子どもが小さい頃、一緒に絵を描いたことがあったんだ。今度は、大人になった息子とも描いてみたい。」
店主は嬉しそうに笑う。
「いい夢じゃねぇか。」
男は立ち上がる。
その表情は、屋台へ来た時とはまるで違っていた。
疲れ切った会社員ではない。
何かを取り戻した、一人の青年のような笑顔だった。
「ありがとう。」
男は深く頭を下げる。
「ラーメンも相談も全部。」
店主は照れくさそうに笑う。
「相談屋じゃねぇラーメン屋だ。」
「ははっ。」
男は久しぶりに心から笑った。
暖簾をくぐる前、振り返る。
「今度は家族も連れてきていいか?」
店主は親指を立てた。
「三人までならな。」
男は苦笑する。
「じゃあ、妻と息子でちょうど三人だ。」
「待ってる。」
男は軽く頭を下げると、夜の路地裏を歩いていった。
その足取りは、来た時よりもずっと軽かった。
店主は男の後ろ姿を見送りながら、小さく呟く。
「夢ってのは、叶えることより。忘れないことの方が難しいのかもしれねぇな。」
そう言って空になった丼を洗い始める。
その時、屋台の外から一枚の紙が風に乗って舞い込んできた。
店主が拾い上げると、それは白紙だった。
「……?」
しかし、月明かりにかざした瞬間、その白紙には色鮮やかな風景画が一瞬だけ浮かび上がる。
青い空。大きな向日葵畑。笑顔で絵筆を握る、先ほどの男の姿。
店主が目を瞬かせると、絵は静かに消え、紙は再び真っ白に戻った。
「未来ってやつは……」案外、悪くない。」
そう呟きながら、店主はその白紙を屋台の引き出しへそっとしまった。
提灯の灯りは今日も変わらず、迷える誰かの帰る場所を静かに照らしていた。




