第四十話「旅の終わり」
第四十話「旅の終わり」
翌朝。
北海道の朝は、
静かだった。
窓の外には、
昨日と同じ広い空がある。
けれど、
今日の空は少しだけ違って見えた。
帰る日だからだ。
小雪は畳の上に置いた荷物を見下ろした。
山梨で増えたもの。
北海道で増えたもの。
服よりも、
思い出の方が重い気がした。
玄関の方から、
豊平の声がした。
「さあ、行くぞ」
小雪は小さく頷く。
「うん」
外に出ると、
リュウが玄関の前に座っていた。
昨日よりも、
少しだけ眠そうな顔をしている。
それでも小雪を見ると、
ゆっくりと尻尾を振った。
「リュウ」
小雪はしゃがんだ。
リュウの頭を撫でる。
昔より白くなった毛。
少し硬くなった背中。
ゆっくりとした呼吸。
小雪は両腕を伸ばし、
リュウをそっと抱きしめた。
「またね」
声が少しだけ震えた。
「元気でいるんだよ」
リュウは、
小雪の腕の中で小さく鼻を鳴らした。
小雪は目を閉じる。
「また、来るからね」
それは、
リュウに言った言葉だった。
けれど同時に、
北海道そのものに言っているようでもあった。
よし江がそっと見守っている。
豊平は何も言わなかった。
ただ、
車のそばで待っていた。
四人は車に乗り、
帯広空港へ向かった。
道は、
相変わらずまっすぐだった。
畑が続く。
電柱が流れる。
遠くの山が、
少しずつ後ろへ下がっていく。
渚は窓の外を見ていた。
いつもなら何か言いそうなのに、
今日は黙っていた。
小雪も、
何も言わなかった。
言葉にすると、
本当に終わってしまう気がした。
やがて車は、
帯広空港に到着した。
荷物を降ろし、
出発ロビーへ向かう。
人の声。
キャリーバッグの音。
アナウンス。
羽田空港ほどではない。
けれど、
旅が終わる音がした。
小雪は豊平とよし江の前に立った。
「おじいちゃん」
「おばあちゃん」
二人の顔を見る。
言いたいことは、
たくさんあった。
でも、
小雪の口から出たのは短い言葉だった。
「ありがとう」
よし江は微笑んだ。
少しだけ目が潤んでいた。
「いつでも帰っておいで」
小雪は頷く。
「うん」
豊平は、
いつものように真っ直ぐ小雪を見た。
「元気でな」
それだけだった。
けれど、
小雪には十分だった。
「うん」
小雪は静かに答えた。
「元気でいてね」
豊平は短く頷いた。
「ああ」
渚も一歩前に出た。
「小雪のおじいちゃん、おばあちゃん」
深く頭を下げる。
「ありがとうございました!」
よし江は嬉しそうに笑った。
「渚ちゃんも、遠いところありがとう」
「また、いつでも遊びに来てね」
「はい!」
渚は顔を上げた。
「絶対また来ます!」
渚の顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
「雪、見に来ます!」
小雪は少し笑った。
「寒いよ」
「いいの!」
よし江が小雪を見る。
「小雪ちゃん」
「うん」
「体に気をつけるのよ」
「お父さんにも、よろしくね」
「うん」
小雪は頷いた。
「二人とも、身体に気をつけて」
「ありがとう」
よし江が言った。
豊平も、
もう一度短く頷いた。
搭乗口へ向かう時間になった。
小雪と渚は荷物を持つ。
小雪は一度だけ振り返った。
よし江は、
いつまでも手を振っていた。
豊平は、
手を振らなかった。
ただ、
真っ直ぐに二人を見送っていた。
その姿が、
小雪には祖父らしく見えた。
小雪は小さく頭を下げる。
渚も大きく手を振った。
「また来ますー!」
よし江が笑う。
豊平の口元が、
ほんの少しだけ緩んだ。
二人の姿が見えなくなるまで、
よし江は手を振っていた。
豊平は、
何も言わずに立っていた。
やがて、
よし江がぽつりと言う。
「いいお友達が出来たのね」
豊平はしばらく黙っていた。
それから、
短く答えた。
「そうだな」
その声は、
少しだけ優しかった。
小雪と渚は搭乗ゲートを抜けた。
この旅が終わる。
山梨で食べた桃。
生まれて初めて見た、
大きな富士山。
バスの窓から見えた、
レインボーブリッジ。
北海道の広い空。
リュウのあたたかさ。
よし江のシチュー。
豊平の短い言葉。
そして、
渚の知らなかった小雪の過去。
どれも渚にとっては、
初めての経験だった。
けれどそれは、
小雪にとっても同じだった。
自分の家族を知ること。
自分の過去を知ること。
自分がどこから来たのかを、
もう一度確かめること。
この旅は、
ただの旅行ではなかった。
小雪と渚が、
少しだけ大人になるための旅だった。
飛行機に乗り込むと、
渚は座席に体を預けた。
「あー」
「もう、帰っちゃうのかー」
小雪は隣でシートベルトを締める。
「寂しい?」
「めっちゃ寂しいよー」
渚は窓の外を見る。
「山梨も北海道も、もっといたかった」
「うん」
小雪も頷いた。
「あっという間だったね」
渚は小雪を見る。
それから、
少しだけ真面目な顔をした。
「でも、めっちゃ楽しかった!」
「小雪」
「うん」
「ありがとう!」
小雪は少し驚いたように渚を見る。
渚は笑っていた。
いつもの明るい笑顔だった。
でも、
その奥に少しだけ寂しさがあった。
小雪は目を伏せる。
「こちらこそ、ありがとう」
小さく会釈をした。
飛行機が、
ゆっくりと動き出す。
滑走路へ向かう機体の窓から、
北海道の空が見えた。
広くて。
遠くて。
静かな空。
小雪は、
その空を目に焼きつけた。
やがて飛行機は加速し、
地面を離れた。
畑が小さくなる。
道が細くなる。
家が点のようになっていく。
北海道が、
少しずつ遠ざかっていく。
でも、
もう遠いだけの場所ではなかった。
そこには、
祖父母がいる。
リュウがいる。
翔がいる。
冬城家のお墓がある。
小雪の知らなかった時間がある。
そして、
また帰る場所がある。
小雪は窓の外を見ながら、
静かに思った。
また来る。
飛行機は、
台湾県へ向けて飛んでいった。
夕方。
飛行機は台湾県へ到着した。
空港の扉が開いた瞬間、
湿った空気が二人を包んだ。
渚が大きく息を吸う。
「あー」
「帰ってきたー!」
小雪は少しだけ眉を寄せる。
「暑い」
「出た、小雪の第一声!」
「本当に暑い」
渚は笑った。
「でも、台湾県って感じでしょ?」
小雪は少し考えて、
頷いた。
「うん」
「帰ってきた感じはする」
渚は嬉しそうに笑う。
けれどすぐに、
少し寂しそうな声を出した。
「あー、小雪との旅行が終わっちゃうー」
小雪は荷物を引きながら言う。
「そうだね」
そして、
少しだけ間を置いた。
「また、行こ」
渚の顔が明るくなる。
「うん!」
「絶対行く!」
空港の出口に向かうと、
見慣れた三人の姿があった。
海太。
美鈴。
そして、
一平。
美鈴が大きく手を振る。
「おかえりー!」
海太も笑っている。
「おかえり、渚!」
「楽しかったか?」
渚は駆け寄るように歩いた。
「めっちゃ楽しかった!」
「山梨も北海道も、すごかった!」
美鈴が笑う。
「よかったじゃない!」
一平は、
少し離れたところで小雪を見ていた。
「おかえり」
小雪は一平の前に立つ。
「ただいま」
その言葉を言った瞬間、
小雪の胸の奥が少しだけ温かくなった。
北海道でも言った言葉。
山梨でも言った言葉。
そして今、
台湾県でも言った言葉。
ただいま。
その言葉を言える場所が、
小雪にはいくつもあるのだと思った。
一平が聞く。
「楽しかったか」
小雪は頷いた。
「うん」
「楽しかった」
それだけでは足りない気がして、
もう一度言う。
「行ってよかった」
一平は小さく頷いた。
「そうか」
その声は静かだった。
けれど、
少しだけ安心したように聞こえた。
海太が明るく言う。
「今日は店休みだけどな」
「明日は二人の報告会だ!」
「大将も楽しみにしてるぞ!」
渚が元気よく頷く。
「うん!」
「明日にはお土産も届くよ!」
美鈴が首を傾げる。
「お土産?」
「山梨からも北海道からも」
渚は得意げに言った。
「小雪のおじいちゃんとおばあちゃんが送ってくれたよ!」
美鈴は驚いた顔をする。
「えー!」
「そんな、申し訳ない」
海太も一平を見る。
「一平さん、すみません」
一平はいつもの調子で答えた。
「いえ」
「両親が勝手にやったことですから」
小雪はその言葉に、
少しだけ笑った。
豊平も。
よし江も。
孝男も。
鶴子も。
みんな勝手に、
たくさんのものを持たせてくれた。
それはきっと、
家族の形なのだと思った。
美鈴が手を叩く。
「さあ、帰ろう!」
海太が荷物を持つ。
「腹減っただろ?」
渚が笑う。
「うん!減った!」
「飛行機乗ってただけなのに?」
「乗ってるだけでもお腹空くの!」
小雪も荷物を持ち直す。
一平が自然に、
その一つを持った。
「持つよ」
「大丈夫」
「いいから」
小雪は少しだけ迷って、
手を離した。
「ありがとう」
一平は何も言わなかった。
ただ、
荷物を持って歩き出した。
小雪はその背中を見た。
北海道で聞いた、
祖父の言葉を思い出す。
小雪の思うように生きるんだぞ。
父は何も知らないような顔で歩いている。
でも、
小雪は知った。
父もまた、
ずっと小雪のために歩いてきたのだと。
空港の外に出る。
夕方の台湾県の空は、
北海道よりも低く、
湿っていて、
人の声が近かった。
山梨。
北海道。
台湾。
どこも違う。
どこも同じではない。
それでも、
小雪の中で、
全部がつながっていた。
こうして、
小雪と渚の旅は終わった。
きっと、
いつまでも心に残る。
ただ楽しかっただけではない。
少し寂しくて。
少し苦しくて。
それでも温かい。
大切な旅だった。
小雪は隣を歩く渚を見る。
渚も小雪を見る。
二人はどちらからともなく、
少しだけ笑った。
旅は終わった。
でも、
日常はまた始まる。
台湾県の夜市には、
今日も灯りがともる。
福來炒飯の鍋の音が響き。
林鶏排の油の匂い。
そして、
台湾県の夕方の空の下を歩き出した。
また新しい日常へ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
山梨編、そして北海道編と続いた小雪と渚の旅は、今回で一区切りとなります。
山梨では、小雪の母方の家族と出会い。
北海道では、小雪の幼い頃の記憶や、父・一平の想い、祖父母とのつながりに触れることができました。
渚にとっても、小雪にとっても、ただの旅行ではなく、少しだけ自分たちの世界が広がる旅になったと思います。
次回からは、台湾県での日常へ戻ります。
小雪と渚のいつもの毎日。
ここからは更新ペースを少し整えて、週一連載として一話ずつ進めていく予定です。
ゆっくりにはなりますが、その分、一話一話を大切に書いていきます。
これからも『もしも台湾が日本だったら』をよろしくお願いします。




