第三十九話「最後の夜」
第三十九話「最後の夜」
その日の夜。
夕食は、
よし江特製の豚丼だった。
大きな丼に盛られたご飯。
その上に、
甘辛いタレをまとった豚肉が並んでいる。
湯気と一緒に、
香ばしい匂いが広がった。
この旅も、
明日で終わる。
そう思うと、
小雪は少しだけ箸を持つ手に力が入った。
豊平が席につく。
「さあ、食べよう」
みんなが手を合わせた。
「いただきます」
渚はさっそく豚丼を一口食べた。
その瞬間、
目を見開く。
「んー!」
「美味しい!」
甘辛いタレが、
ご飯に染みている。
豚肉は柔らかく、
少し焦げた香りが食欲をそそった。
よし江が嬉しそうに笑う。
「帯広の名物だからね」
「最高です!」
渚はもう一口食べる。
「台湾のルーローハンとちょっと似てるけど、全然違う」
「ルーローハン?」
よし江が首を傾げる。
「台湾の豚肉ご飯です!」
「へえ」
「でも、これはもっと香ばしいです」
小雪も一口食べた。
甘辛い味が、
口の中に広がる。
「美味しい」
小さく言うと、
よし江が目を細めた。
「よかった」
渚が小雪を見る。
「小雪、毎日こんなご飯食べてたの?」
「ううん」
小雪は首を振る。
「家では初めて食べたかも」
「え、そうなの?」
よし江が笑った。
「あんまり家ではやらないんだけどね」
そして渚を見る。
「渚ちゃんのために、おばあちゃん張り切っちゃった」
渚はぱっと顔を明るくした。
「おばあちゃん、美味しいです!」
「それならよかったわ」
豊平も静かに豚丼を食べていた。
しばらくして、
ぽつりと言う。
「美味い」
よし江が笑う。
「あら、珍しい」
豊平は、
黙って箸を進めた。
いつもより少しだけ、
食卓は賑やかだった。
渚が豚丼の話をして。
よし江がそれに答えて。
小雪が時々笑う。
豊平は晩酌をしながら、
静かにその様子を見ていた。
やがて、
豊平が小さなグラスを置いた。
「小絵ちゃんが亡くなって、何年になる」
その一言で、
食卓の空気が少しだけ変わった。
よし江が静かに答える。
「もう、十年以上経つわね」
「そうか」
豊平は短く言った。
それきり、
しばらく何も言わなかった。
けれど小雪には、
祖父が何かを思い出しているのが分かった。
小絵が亡くなった後。
まだ幼かった小雪は、
北海道の冬城家に預けられることになった。
冬城家の居間で、
一平は豊平とよし江の前に座った。
そして、
深く頭を下げた。
「親父、お袋」
声は静かだった。
「小雪が小学校に上がるまで、見ていてくれないか」
よし江は何も言えなかった。
豊平は、
しばらく一平を見ていた。
「仕事を辞めて、北海道に帰ってこい」
豊平はそう言った。
それは怒りではなかった。
父親としての、
精一杯の言葉だった。
一平は顔を上げた。
「俺は、この仕事が好きなんだ」
その声は、
少しだけ震えていた。
「でも、小雪を置いていくことが平気なわけじゃない」
よし江が唇を結んだ。
一平はもう一度、
頭を下げた。
「必ず迎えに来る」
「小雪のためにも、俺は頑張る」
豊平は何も言わなかった。
ただ、
畳の上で握られた一平の手を見ていた。
強く握りすぎて、
指が白くなっていた。
その姿を、
豊平は今でも覚えていた。
「あいつも」
豊平がぽつりと言った。
小雪は顔を上げる。
豊平はグラスの中を見つめたままだった。
「よく頑張った」
よし江が静かに頷く。
「そうですね」
小雪は何も言えなかった。
父は、
そんなふうに自分を迎えに来る日まで頑張っていたのか。
大変だったとも。
寂しかったとも。
苦しかったとも。
一平は小雪に言わなかった。
ただ、
小雪の生活を守ってくれていた。
東京でも。
台湾県でも。
いつも静かに、
前を向いていた。
豊平が小雪を見る。
「小雪」
「うん」
「お父さんは好きか」
突然の問いに、
小雪は少しだけ目を丸くした。
でも、
すぐに頷いた。
「うん」
小雪は静かに言った。
「私のために頑張ってくれてるのは、知ってたから」
豊平はしばらく小雪を見ていた。
それから、
小さく頷いた。
「そうか」
「一平も、小絵ちゃんも喜ぶな」
小雪は目を伏せた。
渚は黙って聞いていた。
小雪と出会って、
まだ数ヶ月しか経っていない。
けれど、
山梨に行き。
北海道に来て。
小雪の家族に会い。
小雪の過去に、
少しずつ触れてきた。
教室で隣に座っていた転校生。
暑さに弱くて。
少し人見知りで。
写真が苦手で。
でも、
自分を持っている子。
豊平は、
またグラスを置いた。
「小雪」
「うん」
「小雪の思うように生きるんだぞ」
小雪は豊平を見る。
豊平は、
やっぱり前を向いていた。
「一平のためでも」
「俺たちのためでもなくていい」
「小雪が、決めればいい」
その言葉は短かった。
でも、
小雪の胸にゆっくり沈んでいった。
「うん」
小雪は小さく頷いた。
「そうする」
豊平はそれ以上、
何も言わなかった。
無口な祖父だった。
けれど本当は、
誰よりも小雪を心配しているのだと分かった。
そして、
小雪が可愛くて仕方がないのだと。
豊平はふと、
渚の方を見た。
「渚ちゃん」
「はい」
渚は背筋を伸ばす。
豊平は少しだけ目を細めた。
「小雪の友達なんて」
「翔以外、初めてだ」
小雪が少しだけ豊平を見る。
豊平は続けた。
「じいちゃん、嬉しくてな」
渚は何も言えなかった。
豊平は、
ゆっくり頭を下げるように言った。
「ありがとう」
渚は一瞬、
言葉に詰まった。
どう返せばいいのか、
分からなかった。
でも、
自然と口が動いた。
「小雪と私は、親友なので!」
小雪が渚を見る。
渚も、
なぜその言葉が出たのか分からなかった。
小雪の祖父母を安心させたかったのかもしれない。
小雪のことを、
ちゃんと大切に思っていると伝えたかったのかもしれない。
けれど、
その言葉は嘘ではなかった。
山梨に行って。
北海道に来て。
家族に会って。
昔の小雪を知って。
二人が親友になるには、
十分すぎる旅だった。
小雪は少しだけ目を伏せた。
「照れてる?」
渚が小さく聞く。
「照れてない」
「照れてる」
「違う」
よし江が嬉しそうに笑った。
豊平も、
少しだけ口元を緩めた。
渚は明るく言った。
「また来ます!」
豊平は頷いた。
「いつでもおいで」
少し間を置いて、
続ける。
「今度は冬にでも」
渚の目が輝いた。
「はい!」
「雪、見てみたいです!」
小雪が渚を見る。
「雪、見たことないの?」
「ない!」
「本当に?」
「台湾、雪降らないもん!」
「まあ、そうだけど」
渚は嬉しそうに笑った。
「冬の北海道、絶対すごいよね!」
「寒いよ」
小雪が言う。
「いいの!」
「後悔するかも」
「しない!」
小雪は少し笑った。
北海道と台湾県。
同じ日本でも、
正反対の場所だった。
気候も。
風土も。
食べ物も。
空の高さも。
何もかも違う。
でも、
人の温かさは、
どこに行っても変わらないのかもしれない。
小雪は、
ふとそう思った。
よし江が立ち上がる。
「さあ、明日は早いから、そろそろ寝ましょう」
豊平はグラスを持ったまま言った。
「俺はもう少し飲む」
「飲みすぎないでくださいね」
よし江が言うと、
豊平は短く頷いた。
「あぁ」
小雪と渚は布団に入った。
部屋の明かりを消すと、
窓の外から虫の声が聞こえた。
台湾県の夜とは違う。
山梨の夜とも違う。
涼しくて、
静かな北海道の夜だった。
しばらくすると、
渚の寝息が聞こえてきた。
小雪は目を閉じた。
今日の豊平の言葉を思い出す。
小雪の思うように生きるんだぞ。
その言葉は、
静かに胸の中に残っていた。
やがて、
家の中が寝静まった頃。
居間では、
豊平が一人で座っていた。
古い棚の奥から、
一冊のアルバムを取り出す。
埃を被った、
分厚いアルバムだった。
豊平はそれを膝の上に置き、
ゆっくりと開いた。
小さな小雪。
若い一平。
そして、
笑っている小絵。
リュウを抱きしめる小雪の写真。
翔と並んで雪の中に立つ写真。
豊平は何も言わなかった。
ただ、
グラスを傾けながら、
一枚一枚を静かに見ていた。
夜は、
ゆっくりと更けていく。
北海道で過ごす最後の夜だった。




