第三十七話「二人の夢」
第三十七話「二人の夢」
散歩を終えて、
小雪と渚は冬城家へ戻った。
リュウは満足したのか、
庭先の日陰に座っている。
渚はリュウの頭を撫でながら、
小雪を見た。
「翔ちゃんの家行くの?」
「うん、少し行ってくるね」
「いってらっしゃい!」
渚はにこにこしながら手を振った。
「ごゆっくりー」
「やめて」
渚は笑って、
わざとらしくリュウの方を向いた。
小雪は小さく息を吐く。
けれど、
少しだけ頬が熱かった。
翔の家までは、
歩いて行ける距離だった。
子供の頃は、
毎日のように通った道。
リュウと一緒に走った道。
翔と並んで歩いた道。
今は、
昔より少しだけ短く見える。
それなのに、
胸の奥は昔よりずっと落ち着かなかった。
小雪は歩きながら、
自分の手を軽く握った。
ただ幼なじみに会いに行くだけ。
そう思っても、
足取りは少しだけぎこちない。
春野家が見えてきた。
庭先では、
一人の男の人が作業をしていた。
翔の父、
春野大地だった。
大地は小雪に気づくと、
目を丸くした。
「雪ちゃんか!?」
小雪は立ち止まり、
丁寧に頭を下げた。
「こんにちは」
「お久しぶりです」
「いやあ、随分大人になって!」
大地は嬉しそうに笑った。
「翔なら中にいると思うから、行ってみな」
「はい」
小雪はもう一度頭を下げた。
「ありがとうございます」
玄関の前に立つ。
チャイムを押す前に、
小雪は少しだけ深呼吸をした。
変に緊張している。
そんな自分が、
少しおかしかった。
チャイムを鳴らす。
すぐに足音が聞こえた。
扉が開く。
出てきたのは翔だった。
その後ろから、
翔の母が顔を出す。
春野陽子。
昔と同じ、
明るくて優しい笑顔だった。
「あら、雪ちゃーん!」
「おばさん」
小雪は少し表情を緩める。
「お久しぶりです」
「本当に久しぶりねえ」
陽子は嬉しそうに小雪を見る。
「元気そうでよかったわ」
小雪はバッグから小さな箱を取り出した。
「これ、お土産です」
「まあ、ありがとう」
「台湾のパイナップルケーキです」
「気を使わなくていいのに」
陽子は笑って受け取った。
「さあ、上がって上がって」
小雪は玄関に上がった。
春野家の中は、
昔とあまり変わっていなかった。
廊下の匂い。
壁にかかった写真。
懐かしい家の空気だった。
居間に通されると、
陽子がお茶を出してくれた。
翔は向かいに座った。
小雪は湯飲みを両手で持つ。
何を話せばいいのか、
少し迷った。
「台湾はどう?」
陽子が聞いた。
「暑いです」
小雪はすぐに答えた。
翔が少し笑う。
「そんなに暑いの?」
「うん」
「雪ちゃん、昔から暑いの苦手だったもんね」
「またそれ」
小雪は少しだけ翔を見る。
翔は柔らかく笑っていた。
その顔が、
昔より少し大人びて見えた。
それから少しだけ、
台湾の学校のこと。
渚のこと。
冬城家のこと。
そんな話をした。
翔はあまり多くは話さなかった。
けれど、
小雪の話をちゃんと聞いていた。
相槌は短い。
でも、
目をそらさずに聞いてくれる。
昔と同じだった。
気づけば、
窓の外の光が少し傾いていた。
小雪は湯飲みを置く。
「そろそろ帰ります」
陽子は少し残念そうにする。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「友達が待っているので」
「ああ、台湾のお友達ね」
陽子は翔を見る。
「あんた、雪ちゃん送っていきなさい」
翔はすぐに頷いた。
「わかったよ」
小雪は少し慌てる。
「大丈夫です」
「いいのいいの」
陽子は笑った。
「久しぶりなんだから」
小雪は返事に困った。
翔も、
少しだけ目をそらした。
二人は春野家を出た。
外の空気は、
昼より少しだけ涼しくなっていた。
まっすぐな道を、
二人は並んで歩く。
近すぎず。
遠すぎず。
昔なら、
何も考えずに隣を歩けた。
けれど今は、
手の位置ひとつにも少し迷う。
小雪は前を向いたまま口を開いた。
「翔ちゃん」
「うん」
「お医者さん目指してるんでしょ?」
翔は少しだけ間を置いて頷いた。
「うん」
「なれるかは、分からないけど」
「きっと大丈夫」
小雪はすぐに言った。
翔が小雪を見る。
「そうかな」
「うん」
「翔ちゃんなら、大丈夫」
その言葉に、
翔は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
風が吹いた。
二人の間に、
短い沈黙が落ちる。
翔が静かに言った。
「雪ちゃんは」
「うん?」
「今でも、看護師になりたいの?」
小雪の足が、
少しだけ止まりかけた。
けれど、
すぐに歩き出す。
「うん」
小雪は前を向いたまま答えた。
「変わってないよ」
「そっか」
翔の声は、
どこか安心したようだった。
小雪は空を見上げる。
高くて広い北海道の空。
小雪は幼い頃に母を亡くした。
母がいなくなった理由を、
幼い小雪が全部理解していたわけではない。
けれど、
白い服を着て、
誰かのそばにいる人たちの姿だけは、
不思議と記憶に残っていた。
不安そうな人に声をかけて。
誰かの手を握って。
泣いている人の近くにいる人たち。
小雪はいつの頃からか、
看護師になりたいと思うようになっていた。
病気の人のそばにいたい。
悲しむ人のそばにいたい。
それが、
小雪の最初の夢だった。
翔は、
その横顔を見ていた。
「僕が医者を目指してるのは」
翔は少し迷ってから続けた。
「雪ちゃんの影響だよ」
小雪は驚いて翔を見る。
「そうなの?」
翔は少し照れたように笑う。
「うん」
「雪ちゃん、子供の頃から言ってたでしょ」
「看護師になりたいって」
翔は視線を道に落とす。
「病気の人を助けたいって」
小雪は、
そんなことを言った自分を覚えていなかった。
「それを聞いてたら」
翔は続ける。
「僕も、何かできる人になりたいと思った」
「人の役に立てる人に」
「それで、医者を目指すようになったんだ」
小雪の胸の奥が、
静かに熱くなった。
自分が昔言った言葉を、
誰かが覚えていた。
そしてその言葉が、
誰かの道を変えていた。
そんなこと、
考えたこともなかった。
「……そうなんだ」
小雪は小さく言った。
翔は少し慌てたようにする。
「重く聞こえたら、ごめん」
「違う」
小雪は首を振った。
「嬉しいよ」
その一言に、
翔の表情が少し変わった。
「嬉しい?」
「うん」
小雪は少しだけ笑った。
「じゃあ、いつか一緒に働けるかもね」
翔は一瞬黙った。
それから、
静かに笑った。
「そうなるかもね」
言葉は短かった。
けれど、
二人の間の空気が少しだけ変わった。
昔の話ではなく。
今の話でもなく。
いつかの話。
二人がまだ見たことのない未来の話だった。
冬城家が近づいてきた。
屋根が見える。
庭のあたりに、
リュウの姿も見えた。
もっと話したい。
でも、
何を話せばいいのか分からなかった。
翔も同じように、
何度か口を開きかけては閉じた。
二人とも、
昔より少しだけ大人になっていた。
冬城家の前に着く。
小雪は立ち止まり、
翔を見る。
「送ってくれてありがとう」
「うん」
「お互い、頑張ろうね」
「うん」
翔は頷いた。
けれど、
そのまま帰ろうとはしなかった。
小雪もそれに気づく。
「翔ちゃん?」
翔は、
その場に立ったままだった。
何か言いたそうに、
少しだけ視線をそらす。
「あの」
「うん」
「連絡先」
「え?」
「交換しようよ」
翔は少し恥ずかしそうに言った。
小雪の胸が、
少しだけ跳ねた。
「う、うん」
小雪は慌ててスマホを取り出す。
「いいよ」
二人は少しぎこちなく、
連絡先を交換した。
画面に翔の名前が表示される。
春野翔。
小雪はそれを見て、
不思議な気持ちになった。
昔は、
連絡先なんてなくても会えた。
家を出て、
少し歩けば翔がいた。
でも今は、
こうして交換しなければつながれない。
それが少し寂しくて。
少し嬉しかった。
「じゃあ」
小雪はスマホをしまう。
「連絡するね」
翔は小さく頷いた。
「うん」
「僕もするよ」
「うん」
二人はまた少し黙った。
庭の方で、
リュウが小さく吠えた。
その声で、
小雪は少し笑った。
「またね」
「うん」
翔も笑う。
「また」
翔は来た道を戻っていった。
小雪はその背中を見送る。
さっきよりも、
少しだけ足取りが軽く見えた。
小雪も玄関へ向かう。
手の中のスマホが、
少しだけ温かい気がした。
玄関の向こうから、
渚の声が聞こえる。
「おかえりー!」
小雪は扉の前で、
一度だけ振り返った。
まっすぐな道の向こうに、
翔の背中が小さく見える。
小雪は小さく息を吐いてから、
静かに玄関を開けた。




