第三十六話「二人と一匹」
第三十六話「二人と一匹」
食事を終えたあと。
小雪は窓の外を見た。
庭先では、
リュウがのんびり過ごしている。
小雪は立ち上がる。
「リュウのお散歩してくる」
よし江が台所から顔を出した。
「あまり長く歩かなくていいからね」
「うん、大丈夫」
小雪は玄関へ向かいながら、
渚を見た。
「渚、行こ」
「はーい!」
渚はすぐに立ち上がった。
リュウにリードをつけると、
リュウは嬉しそうに尻尾を振った。
「リュウ、行こ」
小雪が声をかけると、
リュウはゆっくりと歩き出した。
家を出ると、
広い空が広がっていた。
道は、
どこまでもまっすぐ続いている。
左右には、
色づいた小麦畑が広がっている。
風が吹くたびに、
穂がゆっくりと揺れる。
「こんな真っ直ぐな道、見たことないよー!」
渚が思わず声を上げた。
小雪は少し笑った。
「そうだよね」
「どこまで続いてるの?」
「分からない」
「分からないの!?」
「小さい頃は、そんなこと考えてなかったから」
リュウの足取りは、
昔よりずっと穏やかだった。
小さい頃は、
この道をリュウと走った。
リードなんてつけずに、
畑の端まで駆けていった。
リュウが先に走って、
小雪が追いかける。
息が切れても、
まだ走った。
でも今は、
昔みたいには走れない。
リュウは年を取った。
だから小雪は、
リュウの歩幅に合わせて歩いた。
ゆっくり。
ゆっくり。
それでも、
リュウは嬉しそうに尻尾を振っていた。
「小雪」
渚が横から覗き込む。
「嬉しそうだね!」
しばらく歩いていると、
遠くから小さな音が聞こえてきた。
エンジンの音だった。
まっすぐな道の向こうから、
一台のスクーターが近づいてくる。
渚が目を細める。
「スクーター?」
小雪は何気なく前を見た。
スクーターは少しずつ近づいてくる。
そして、
近くまで来た時。
小雪の足が止まった。
向こうも、
こちらに気づいたようだった。
スクーターがゆっくりと速度を落とし、
二人の少し手前で止まる。
ヘルメットを外した男の子が、
小雪を見た。
小雪も、
その顔を見つめた。
数秒。
二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのは、
小雪だった。
「翔ちゃん」
男の子は、
少しだけ目を丸くしたあと、
静かに笑った。
「雪ちゃん」
その呼び方に、
渚がぴくっと反応した。
雪ちゃん。
小雪をそんなふうに呼ぶ人を、
渚は初めて見た。
小雪は少し照れたように目を伏せる。
「久しぶりだね」
「うん」
翔は頷いた。
「三年ぶりくらいかな」
「そうだね」
会話はそこで止まった。
風の音だけが、
二人の間を流れていく。
小雪は何か言おうとして、
少し口を開く。
けれど、
すぐに閉じた。
翔も同じように、
何か言いたそうにしている。
でも、
言葉が出てこない。
その様子を見て、
渚はにやりとした。
小雪が、
あたふたしている。
いつもの小雪は、
静かで落ち着いていて、
少し冷静すぎるくらいなのに。
今の小雪は、
明らかにいつもと違った。
「……渚」
小雪はようやく隣を見る。
「翔ちゃん」
「北海道の幼なじみ」
それから翔を見る。
「翔ちゃん、台湾のお友達の渚」
渚は明るく手を上げた。
「渚でーす!」
「小雪がお世話になってます!」
「渚」
小雪がすぐに止める。
翔は少し戸惑いながらも、
軽く頭を下げた。
「どうも」
渚はにこにこしながら言った。
「小雪から聞いてます!」
「渚」
小雪の声が少し低くなる。
「聞いたって言っても、さっきだけどね」
渚は楽しそうだった。
小雪の横顔を見て、
さらににやつく。
それから、
小雪の腕を指でつついた。
小雪が渚を見る。
「渚、やめて」
もう一度、つつく。
「やめてって」
渚はにやにやしたまま、
リュウのリードを小雪から受け取った。
「私、リュウと先に行ってるねー!」
「え」
「いこ! リュウ!」
リュウは渚に引かれて、
ゆっくりと歩き出した。
小雪は少し慌てる。
「ちょっと、渚」
「すぐそこにいるから!」
渚は振り返って手を振った。
「ごゆっくりー!」
「渚!」
小雪の声は届いたけれど、
渚は聞こえないふりをした。
こんなにあたふたした小雪を、
渚は見たことがなかった。
これは見守るべきだ。
そう勝手に決めて、
渚はリュウと一緒に少し離れた。
小雪は小さく息を吐いた。
翔はその様子を見て、
少しだけ笑う。
「元気な子だね」
「うん」
小雪は渚の背中を見る。
「すごく元気」
「台湾のお友達?」
「うん」
「台湾に引っ越したんだよね?」
小雪は頷いた。
「うん」
「暑くて大変」
翔が少し笑った。
「雪ちゃん、暑いの苦手だったもんね」
「覚えてるの?」
「覚えてるよ」
「夏になると、すぐ日陰に逃げてた」
小雪は少し恥ずかしそうにする。
「そんなことない」
「してたよ」
「……覚えてない」
また少しだけ、
沈黙が落ちた。
久しぶりすぎて、
何を話せばいいのか分からなかった。
話したいことはある気がする。
でも、
どれから話せばいいのか分からない。
小雪は目の前の道を見る。
昔は、
この道を翔とリュウと走った。
何も考えずに。
ただ、
今日が楽しいだけで十分だった。
でも今は、
三年分の時間が二人の間にあった。
翔の背も伸びていた。
声も少し低くなっていた。
小雪も、
きっと変わっているのだろう。
「翔ちゃん」
小雪が言った。
「あとで、お家行ってもいい?」
翔はすぐに頷いた。
「うん、いいけど」
「おばさん達にも会いたいし」
「母さん、喜ぶと思う」
「そっか」
小雪は少し安心したように頷いた。
「じゃあ、あとで行くね」
「うん」
翔はヘルメットを持ち直した。
「また、あとで」
小雪は小さく頷いた。
「うん」
翔はスクーターにまたがった。
エンジンがかかる。
小雪は道の端に立ったまま、
その姿を見ていた。
スクーターはゆっくりと走り出す。
まっすぐな道を、
少しずつ遠ざかっていく。
その背中が小さくなるまで、
小雪はしばらく見送っていた。
「雪ちゃん、ねえ」
いつの間にか戻ってきた渚が、
にやにやしながら言った。
小雪は振り向く。
「何」
「雪ちゃん」
「やめて」
「雪ちゃん」
「渚」
「はいはい」
渚は笑いながら、
リュウのリードを小雪に返した。
「でも、なんかいいね」
「何が」
小雪は、
翔が走っていった道を見る。
風が吹いた。
小雪はリュウの頭を撫でながら、
小さく呟いた。
「あとで、行こう」
渚はその横顔を見て、
静かに頷いた。
「いっておいで」
二人と一匹は、
まっすぐな道をゆっくりと歩き出した。




