第三十五話「シチュー」
第三十五話「シチュー」
家の中に入ると、
優しい匂いが広がっていた。
あたたかくて、
少し甘い匂い。
渚は玄関で靴を脱ぎながら、
思わず顔を上げた。
「良い匂ーい!」
台所の方では、
よし江が鍋を温めていた。
小雪は、
その匂いに少しだけ表情を緩める。
「シチューかな」
「よく分かるね!」
渚が聞く。
「うん」
小雪は短く答えた。
「おばあちゃんのシチュー、好きだから」
よし江が振り返って笑った。
「小雪ちゃんが来るからね」
よし江は鍋をかき混ぜながら言った。
「着いたらすぐ食べられるように、朝から作っておいたの」
渚が小雪を見る。
「小雪、愛されてるね」
「……うるさい」
小雪は照れくさそうに言った。
居間に入ると、
テーブルの上には昼食の準備がされていた。
大きな鍋。
炊きたてのご飯。
小皿に盛られた漬物。
冷たい牛乳。
よし江が器にシチューをよそってくれる。
白い湯気の中に、
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
とうきび。
大きめに切られた野菜が、
ごろごろと入っていた。
「はい、お待たせ」
よし江が笑う。
「家で取れた野菜で作ったシチューだよ」
「うわ、美味しそう」
渚の目が輝いた。
「牛乳とチーズは、帯広のものよ」
「帯広の牛乳……!」
渚は真剣な顔になる。
「絶対美味しい!」
小雪が小さく笑った。
テーブルには、
シチューと一緒にご飯が並んでいる。
渚はそれを見て、
首を傾げた。
「シチューなのに、ご飯?」
「渚はパン派?」
「うん。シチューはパンか、そのままかな」
「うちはずっとご飯」
小雪は当然のように言った。
「ご飯の方がおいしいよ」
渚がにやっとする。
「本当に好きなんだね!」
「何が」
「シチューに対する信念が強い!」
「そんなことない」
よし江が笑った。
「小雪ちゃん、小さい頃からそうだったのよ」
「おばあちゃん」
「じゃがいもばっかり先に食べてね」
「覚えてないよ」
小雪は少しだけ顔をそらした。
豊平が静かに箸を持つ。
「さあ、食べよう」
みんなが手を合わせた。
「いただきます」
渚はシチューを一口食べた。
その瞬間、
目を見開く。
「んー!」
「どうしたの?」
「美味しい!」
渚はもう一口食べる。
「濃い! 」
渚は嬉しそうだった。
小雪もスプーンを口に運ぶ。
じゃがいものほくほくした甘さ。
とうきびの香り。
牛乳のやわらかい味。
口に入れた瞬間、
小雪は少しだけ目を細めた。
「……美味しい」
その声は小さかった。
でも、
よし江は嬉しそうに笑った。
「よかった」
食事は静かに進んだ。
渚は何度も「おいしい」と言い、
小雪はいつもより少し早く食べた。
気づけば、
小雪の器は空になっていた。
「……おかわり」
小雪が器を差し出す。
渚が驚いて小雪を見る。
「小雪がおかわりした」
「何」
「珍しいなって」
「お腹空いてただけ」
「本当に?」
「本当」
よし江は嬉しそうに器を受け取った。
「たくさん食べてね」
食事を終えると、
よし江がお茶を入れてくれた。
渚はバッグから小さな箱を取り出す。
「あの、これ」
「まあ」
「台湾のお土産です」
渚は少し照れながら言った。
「パイナップルケーキです」
よし江は嬉しそうに受け取った。
「そんなに気を使わなくていいのに」
「じゃあ、早速いただきましょうか」
お茶と一緒に、
パイナップルケーキが並んだ。
北海道の家の食卓に、
台湾のお菓子が置かれている。
小雪はそれを見て、
少し不思議な気持ちになった。
「台湾の生活はどう?」
よし江が聞いた。
小雪は湯飲みを持ったまま答える。
「うん。楽しいよ」
「そう」
よし江は安心したように笑った。
「こんなに良いお友達がいるものね」
小雪は隣の渚を見る。
渚は少し照れたように笑っていた。
「うん」
小雪は素直に頷いた。
よし江は渚に向き直る。
「渚ちゃん」
「はい!」
「この子、あんまり喋らない子だけど、これからもよろしくね」
「おばあちゃん」
小雪が少し困った顔をする。
渚は背筋を伸ばした。
「こちらこそです!」
そして小雪を見て笑う。
「私も、小雪といると楽しいので!」
小雪は湯飲みに視線を落とした。
「……そう」
「照れてる?」
「照れてない」
よし江は嬉しそうに笑った。
しばらく世間話をしていると、
よし江がふと思い出したように言った。
「そういえば、お隣の翔ちゃん」
小雪の手が少し止まった。
「翔ちゃん?」
「そう。お医者さんを目指してるんですって」
「そうなんだ」
小雪は静かに言った。
「もう、しばらく会ってないでしょ。あとで顔出してきたら?」
「……うん」
渚が小雪を見る。
「翔ちゃんって?」
「幼なじみ」
「北海道の?」
「うん」
春野翔。
小雪の北海道時代の、
数少ない友達だった。
この辺りは、
家同士の距離が遠い。
子供も多くない。
だから小雪にとって翔は、
北海道で一緒に遊んだ唯一の友達だった。
小雪と翔。
それから、リュウ。
二人と一匹で畑のそばを走ったり、
冬には雪の中で遊んだりした。
渚は少し身を乗り出した。
「小雪の幼なじみか」
「うん」
「会ってみたい」
「すぐそう言う」
小雪は少し困ったように言った。
よし江が優しく笑う。
「あとで行ってきなさい」
豊平が言った。
渚は窓の外を見る。
広い畑。
遠くに続く道。
小雪はもう一度、
窓の外を見た。
庭にはリュウがいる。
その先には、
しばらく会っていない幼なじみがいる。
北海道に帰ってきた。
その実感が、
少しずつ小雪の中に広がっていった。




