第三十四話「ただいま」
第三十四話「ただいま」
飛行機は、
帯広空港に到着した。
機体を降りると、
羽田とは空気が違っていた。
人の流れも、
音の大きさも、
どこかゆっくりしている。
「なんか、静かだね」
渚が周りを見回しながら言った。
「羽田が人多すぎるんだよ」
小雪はそう答えながら、
荷物受け取り場へ向かった。
ベルトコンベアがゆっくりと回っている。
しばらく待っていると、
二人の荷物が流れてきた。
渚が自分の荷物を引き寄せる。
「よし!」
小雪も荷物を受け取り、
出口へ向かった。
自動ドアの向こうに、
到着ロビーが見える。
その先に、
二人の姿があった。
背筋の伸びた、
無口そうな男の人。
その隣に、
優しそうに手を振る女の人。
小雪の足が、
少しだけ止まった。
「小雪ちゃん」
女の人が目を細めた。
「おかえり」
祖母のよし江だった。
その隣で、
祖父の豊平が小さく頷く。
「おかえり」
短い言葉だった。
でも、
その声には確かに温かさがあった。
小雪は荷物の持ち手を握り直した。
「おじいちゃん」
「おばあちゃん」
少しだけ間を置いて、
小雪は言った。
「ただいま」
よし江は嬉しそうに笑った。
豊平も、
表情は大きく変わらない。
けれど、
その目には優しさがあった。
小雪は隣の渚を見る。
「紹介するね」
「台湾のお友達の渚」
渚は一歩前に出て、
勢いよく頭を下げた。
「林渚です!」
「よろしくお願いします!」
よし江はにこにこと笑った。
「遠いところ、いらっしゃい」
「何もないところだけど、ゆっくりしていってね」
「はい!」
渚は元気よく返事をした。
「ありがとうございます!」
豊平は二人の荷物を見た。
そして、
短く言った。
「行くぞ」
それだけ言うと、
くるりと背を向けて歩き出す。
小雪は小さく笑った。
「おじいちゃん、あまり喋らないから」
「そうなんだ」
渚は豊平の背中を見る。
無駄なことを言わない。
表情もあまり変わらない。
でも、
荷物は当然のように持ってくれる。
その雰囲気は、
どこか小雪の父、一平に似ていた。
きっと、
小雪のお父さんは、
おじいちゃんに似たのだろう。
渚はそう思った。
豊平。
一平。
そして小雪。
三人とも、
口数は多くない。
けれど、
冷たいわけではない。
言葉にするのが、
少し苦手なだけなのかもしれない。
空港の外へ出ると、
乾いた風が吹いた。
台湾県の空気とは違う。
山梨の夏とも違う。
軽くて、
広い風だった。
駐車場に停めてあった車に乗り込む。
豊平が運転席。
よし江が助手席。
小雪と渚は後部座席に並んだ。
車がゆっくりと動き出す。
空港を出ると、
景色はすぐに広くなった。
「それにしても、久しぶりね」
よし江が振り返って言った。
「何年ぶりかしら」
「三年くらいかな」
小雪が答える。
「そうねえ」
よし江は懐かしそうに目を細めた。
「随分、お姉さんになったわね」
「そんなことないよ」
小雪は少し恥ずかしそうに言った。
よし江は笑った。
「背も伸びたし、顔つきも大人っぽくなったわ」
「そうかな」
「そうよ」
小雪は少し困ったように窓の外を見た。
渚はその様子を横目で見ながら、
少しだけ笑った。
小雪が照れている。
台湾県ではあまり見ない顔だった。
車はまっすぐな道を進んでいく。
窓の外には、
広大な農地が広がっていた。
畑。
牧草地。
遠くに見える牛舎。
空は高く、
雲は遠い。
「うわー!」
渚が思わず声を上げた。
「ひろーい!」
小雪は少し肩をすくめる。
「声、大きい」
「だって広いよ!」
渚は窓に顔を近づけた。
「どこまで畑なの!?」
よし江が笑う。
「この辺りは畑と酪農が多いのよ」
「酪農!」
渚の目が輝く。
その時、
道路の向こう側に牛が見えた。
「牛ー!」
渚が叫んだ。
「渚、声大きい」
小雪が注意する。
「だって、牛なんてなかなか見ないよ!?」
「台湾県にもいるでしょ」
「いるけど、こんな普通に見ないよ!」
豊平が前を向いたまま、
ぽつりと言った。
「この辺りは、ずっとこんな感じだ」
その言い方があまりにも静かで、
渚は少しだけ背筋を伸ばした。
「すごいです」
豊平は何も言わなかった。
けれど、
少しだけ頷いたように見えた。
冬城家も、
この広大な土地で農業をやっている。
小雪は窓の外を見ながら、
その景色を眺めていた。
はっきり覚えているわけではない。
でも、
知らないわけでもない。
遠くの畑。
風の匂い。
車の中の空気。
少しずつ、
昔の感覚が戻ってくるような気がした。
「おばあちゃん」
小雪が言った。
「リュウ、元気?」
渚がすぐに反応する。
「リュウ?」
「うん」
小雪は少しだけ表情を緩めた。
「犬の名前」
「犬いるの!?」
「うん」
よし江が振り返って笑った。
「元気よ。随分おじいちゃんになっちゃったけどね」
「そっか」
小雪の声が少し柔らかくなる。
「早く会いたいな」
リュウは、
小雪が幼い頃に近所からもらってきた柴犬だった。
小さい頃の小雪にとって、
一番近くにいた遊び相手だった。
庭で走った。
畑の端まで一緒に歩いた。
眠る時も、
窓の外から小雪の部屋を見上げていた。
東京へ行くことになった時。
小雪は、
リュウと離れるのが嫌で仕方なかった。
普段あまり大きな声で泣かない小雪が、
その時だけは珍しく大泣きした。
リュウの首にしがみついて、
なかなか離れなかった。
その時のことを、
小雪は全部は覚えていない。
でも、
リュウの毛の感触だけは、
なぜか覚えていた。
車はさらに進み、
やがて一軒の家が見えてきた。
広い農地の中に、
ぽつんと建っている家。
小雪は窓の外を見る。
胸の奥が、
少しだけ熱くなった。
家の前に車が止まる。
その瞬間。
奥の方から、
大きな犬の声が聞こえた。
「ワン!」
「ワンワン!」
小雪の顔が変わった。
「リュウ!」
車のドアが開くと同時に、
小雪は荷物も置いたまま駆け出した。
庭の向こうから、
一匹の柴犬が走ってくる。
若い頃のような速さではない。
けれど、
尻尾を大きく振りながら、
まっすぐ小雪へ向かってきた。
「リュウ!」
小雪がしゃがみ込む。
リュウは小雪に飛びついた。
「リュウ、元気だった?」
小雪は両手でリュウを抱きしめた。
リュウは嬉しそうに鼻を鳴らし、
小雪の頬に顔を擦り寄せる。
「覚えててくれたの?」
小雪が小さく笑った。
その声は、
渚が今まで聞いたことのないくらい柔らかかった。
渚もゆっくり近づく。
「かわいいー!」
リュウが渚を見る。
渚はしゃがんで、
にこっと笑った。
「リュウ、よろしくね!」
リュウは少しだけ渚の匂いを嗅いでから、
また小雪の方へ顔を向けた。
「小雪のこと大好きなんだね」
渚が言う。
小雪はリュウの頭を撫でながら、
少し照れたように笑った。
「たぶん」
「たぶんじゃないよ」
渚は笑った。
「めちゃくちゃ好きじゃん」
小雪は何も言わず、
もう一度リュウを撫でた。
その横顔を見て、
渚は思った。
ここにも、
小雪がいたんだ。
台湾県で出会った小雪。
東京から来た小雪。
山梨で祖父母に会った小雪。
そして、
北海道でリュウに駆け寄る小雪。
どれも、
同じ小雪だった。
けれど、
少しずつ違う顔をしていた。
「さあ」
豊平の声がした。
「家に入りなさい」
よし江も笑って言う。
「お昼ご飯にしましょう」
小雪はリュウの首元を撫でてから、
そっと立ち上がった。
「うん」
そして、
リュウに向かって言った。
「リュウ、またあとでね」
リュウは小さく吠えた。
まるで、
返事をするみたいに。
小雪は少し笑って、
家の方へ歩き出した。
北海道の空は、
高く広がっていた。




