第二十八話「雲海」
第二十八話「雲海」
午前三時。
まだ夜の色が残る石原農園。
「さて、出発するぞー」
孝男が玄関を開けた。
「はーい」
小雪はすぐに立ち上がる。
「ねむーい……」
渚は半分目を閉じたままだった。
「本当に行くの?」
「行くよ」
「富士山見たいって言ったじゃん」
「昨日の私は元気だったの…」
小雪は思わず笑った。
三人を乗せた車は、
静かな農道を走り出した。
三十分後。
登山者用駐車場へ到着する。
車を降りた瞬間。
辺り一面が白かった。
「うわ……」
渚が辺りを見回す。
霧。
どこを見ても霧だった。
「おじいちゃん」
小雪が空を見上げる。
「こんな霧で富士山見えるの?」
孝男は笑った。
「大丈夫だ」
そして少しだけ空を見た。
「今日は当たりかもしれないぞ」
「当たり?」
渚が首を傾げる。
「富士山に当たりとかあるの?」
「あるさ」
孝男は頷く。
「毎日違うからな」
渚にはよく分からなかった。
歩き始める。
登山といっても舗装された道路だ。
それでも、
朝の三時台には十分きつい。
「しんどーい……」
渚がぼやく。
「まだ十分しか歩いてないよ」
小雪が呆れる。
「十分も歩いたんだよ!」
「まだ三十分ある」
「うそでしょ……」
渚は空を見上げた。
真っ暗だった。
四十分ほど歩いた。
ようやく目的地が見えてくる。
「さ」
孝男が指差した。
「あとはこの階段だけだ」
渚は固まった。
「まだあるの?」
目の前には長い階段。
百八十段ほどある。
「あと少し」
小雪が笑う。
「頑張ろ」
「絶対騙された……」
渚は文句を言いながら登り始めた。
階段を登りきる。
息が上がる。
「はぁ……」
「もう無理……」
しゃがみ込む渚。
孝男はその先を見ながら言った。
「二人はここで待ってなさい」
「え?」
「ちょっと様子を見てくる」
そう言って先へ歩いていった。
数分後。
孝男が戻ってくる。
顔が少し嬉しそうだった。
「今日の富士山は凄いぞ」
「へー……」
渚はもう疲れ切っていた。
富士山どころではない。
「さあ」
「行こう」
少し歩く。
そして。
霧が切れた。
渚は立ち止まる。
その先に。
富士山があった。
真っ白な雲海。
朝日に染まり始める空。
その中心に。
富士山だけが静かに立っていた。
まるで空に浮かんでいるようだった。
誰も喋らない。
風の音だけが聞こえる。
「綺麗……」
小雪が小さく呟いた。
ふと横を見る。
渚が動かない。
「渚?」
渚は黙ったまま富士山を見つめていた。
そして、
頬を涙が伝っていた。
「やばい……」
「こんなに綺麗だなんて思わなかった……」
声が震えていた。
「写真と全然違う」
小雪は何も言わなかった。
ただ頷く、
それしか出来なかった。
しばらくして、
孝男が静かに口を開く。
「富士山はな」
「コノハナサクヤヒメ様って神様が宿る山なんだ」
渚は黙って聞いている。
「だから昔から」
「みんなが手を合わせてきた」
朝日に照らされた富士山は、
確かに神様のように見えた。
孝男はリュックから水筒を取り出した。
「ほれ」
「ブラックだけど飲めるか?」
紙コップへ注ぐ。
湯気が立った。
「ありがとう」
小雪が受け取る。
渚も受け取った。
一口飲む。
苦い。
でも温かかった。
三人は並んで富士山を眺める。
ゆっくりと太陽が昇っていく。
雲海が金色に染まる。
誰も急がなかった。
その時間が。
とても特別だった。
しばらくして。
渚が口を開いた。
「おじいちゃん」
「ん?」
「ありがとうございます」
孝男が振り向く。
「すっごく感動しました」
渚は少し照れながら笑った。
孝男も嬉しそうに笑う。
「そうかそうか」
「喜んでもらって良かったよ」
そして立ち上がる。
「さあ」
「そろそろ降りてお墓の掃除に行こうか」
「うん」
小雪が頷く。
「渚」
「もう少し付き合ってね」
渚は笑った。
「もちろん!」
「そのために来たんだから!」
さっきまでの眠気はどこかへ消えていた。
帰り道。
さっきまで文句ばかり言っていた渚が。
一度も疲れたとは言わなかった。
雲海の向こうに浮かぶ富士山は。
きっと。
ずっと忘れられない景色になるのだろう。




