■孝編 その14
20XX年7月23日 日本・東京 22:25
『生きている……』
孝は生きているのだ。
もちろん落下したわけではない。
ここは4階。
足から落ちてもただではすまないだろう。
まして、頭からだったら……。
そう、孝は落下したのだが、偶然にも壊れた鉄柵のちぎれた部分にセーターが引っ掛かり、かろうじて落下せずには済んだのだった。
『梢に救われたのか?』
皮肉なことだ、と孝は思った。
自分を欺いていた女からの贈り物が、命を救ったのだから。
目の粗いできそこないのセーターだからこそ、偶然鉄柵のちぎれた鉄棒に引っ掛かり、一命を取り留めたのだ。
間もなくして、壊れた鉄柵の残った部分につかまり、力を振り絞って廊下に這い上がった。
「……」
下を見た。
そこには壊れた鉄柵と、頭がはじけ脳みそが飛び出している学の死体があった。
『学……』
孝はいままさに殺されそうになったにも関わらず、学のことを思い、泣いた。
『せっかくこの世で自分のことを知っている人間と、やっと出会えたというのに……』
涙が止まらなかった。
が、悲しんでばかりもいられない。
そう、梢のことだ。
「梢!」
孝は梢の名を呼びながら、部屋に入った。
居間には腹巻をした、年老いたアダムが酒瓶で頭をかち割られて絶命していた。
死後数日経っているであろう死体は、頭のあたりに大量の血が乾いてこびりつき、腐敗して虫がたかっていた。
たぶん、梢の父親だろう。
台所にもトイレにもいない。
そして梢の部屋らしき場所ではパソコンのモニターが煌々と光を放っていた。
しかし、その内容は見るまでもないだろう。
そしてドアというドアを開け、部屋という部屋を確認した。
が、やはりそこには梢の姿はなかった。
そう、もし梢がいたのならこの騒ぎに気がつかないわけがないからだ。
学と一戦を交えていた時、姿を現さなかった時点でうすうす気がついてはいたが。
ポケットからケータイを取り出し、梢に電話をしてみた。
まもなく、例のアナウンスが流れた。
「お客様のおかけになった……」
そして両親のケータイにもかけてみたが、結果は同じだった。
孝はケータイを思いっきり床に叩きつけた。
プラスチックや電子部品がキラキラと光りながら、バラバラになった。
美しかった。
また、その美しさが心底憎らしかった。
◆■◆
家路につく。
なぜかは分からないが足が向いた。
自分だか誰だかわからなくなってしまった己の存在を確認するための行為なのかもしれない。
そこには当然未来などないが、思い出だけは詰まっている。
それとも社会が壊れ、人間も一個の獣へと堕したことで蘇った帰巣本能が起こした行動なのかもしれない。
孝は疲れていた。
あらゆることに。
そして、すべてがいやになっていた。
ただ、
『帰ろう……』
そう思った。
なぜそう思ったのかは分からなかった。
未練もないはず。
梢を見つけるのももう絶望的だろう。
そしてこの地球上のどこに行っても、自分を知っている人間に会うこともないのだから。
■20XX年7月23日 日本・東京 23:59
自転車を力なくこぐ。
そうして、着いた。
自分の住む町に。
しかし、そこはかつてのきれいな住宅街などではなかった。
自動車があちこちで事故を起こした状態のまま乗り捨てられ、死体が散乱し、家々の窓ガラスが割られている悲惨な状況へと変貌していた。
自分の家も例外ではなかった。
窓ガラスはすべて割られて、庭木もめちゃくちゃだ。
そして玄関も開いたままだ。
まるで、孝の到着を待っていたかのように。
土足のまま玄関に上がり、二階の自分の部屋へ。
見ると部屋のドアは開け放たれていた。
しかしもう警戒などしていない。
どうなってもいいと思っているからだ。
それにしてもなぜ先ほどの学との一戦で、あのような行動をとったのか?
梢が孝に近づいた不純な動機が分かったからには、もう会う必要もなくなったというのに。
いっそ、あのまま学に殺されていたほうが、どれだけ楽だったろうか?
やるせない気持ちだけが、孝のすべてを支配した。
裏切られていたという嫌な事実を引きずりながら、これからも生きていかなければならないというのに。
疲れた体を引きずり、だらしなく部屋に入る。
その時、人の気配を感じた。
が、気にもとめずに歩みを進めた。
暴漢なら、ひと思いに殺してもらうほうがいいかもしれない。
そんなことを考えているとき、突然話しかけられた。
「孝?」
『えっ?』
女だった。
シャツには大量の返り血を浴びていた。
「孝よね? そのセーター」
「こ、梢か?」
すると、女は涙声で話しかけてきた。
「孝……生きていたのね!?」
「……梢」
「会いたかったの……会いたかったの。ここに居ればきっと会えると思っていた」
『なんで、お前はここに居るんだ?』
「孝……怖かった」
おびえた目で孝を見続ける梢。
『お前は俺を陥れようとしたんじゃないのか?』
「孝……」
『学の言ったことは本当なのか? どうなんだ? 梢?』
一歩ずつ近寄る梢。
孝も距離を縮める。
梢の目にはあふれんばかりの涙がたまっている。
今にももう、零れ落ちそうなほどに。
『騙されるな孝。この女は敵だ』
一歩、また一歩。
「……」
『殺せ……』
そしてお互いが目の前の位置にまで近づいた。
『殺すんだ!』
両手を伸ばす。
梢の体へ。
しかし、首を絞めるつもりだった両手はなぜか梢を抱きしめた。
『俺は何をやっているんだ? なんでこの女を抱きしめているんだ?』
肉体の感触は、明らかにかつて抱いた梢のそれではない。
しかし、抱いた体から手を離すことはできなかった。
『殺すんだ! この女は俺を騙していたんだぞ? 裏切り者は何度でも裏切る。また、騙されたいのか?』
自分にそう言い聞かせるが、そんな思いとは裏腹に抱きしめた手を離すことが出来ない。
それどころか、いっそう強く抱きしめている。
孝の意思とは反して。
密着した体から温度を感じる。
温かい。
そして、懐かしい。
何かが心にしみこんでくる。
『殺……』
そうしてもう一度、きつく、強く抱きしめた。
肉体ではなく、梢の心を。
梢の本当も嘘も隠し事も、過去も未来も現在も、全部をひっくるめて孝は梢を抱いた。
そして、絶対に手放さないと誓った。




