■孝編 その9/10/11
20XX年7月23日 日本・東京 20:07
『着いた……』
孝は会社の前に立ち、ビルを見上げた。
すると、十数階のある部屋に煌々と電気がついているのを確認した。
『人がいるのか! もしかしたら会社の人間が!?』
一瞬胸が高鳴る。
が、一呼吸置いて冷静さを保った。
そう、そこにいるのは会社の人間とは限らないからだ。
このたった数日の間で、孝は身を守るということの大事さをいやというほど思い知らされてきた。
それだけに、慎重にならざるを得ない。
裏口の玄関から侵入し、念のためエレベーターは使わない。
階段を上る。
この会社での登り降りに階段など使ったことはほとんどなく、また焦る気持ちも手伝ってか目的の階までの道のりがいやに遠く感じた。
一段ずつ踏みしめて、ようやく辿り着いた。
部屋の窓からもれた光が廊下を照らし出している。
慎重に進んで、部屋の前に着いた。
そっと扉を開けて、隙間から中を覗いてみる。
するとそこには女の姿が!
しかも会社の制服まで着用している。
「梢!」
思わず叫んだ孝。
その声に呼応して振り向く女。
「梢なのか?」
もう一度問いかける。
すると女は小さく首を振った。
『違うのか……』
がっくりと肩を落とす孝。
まぁそう都合よく再開できるわけもないだろう。
だからがっかりすることはないんだ、と自らを言い聞かせた。
女が話しかけてきた。
「あなたはここの会社の人?」
力なく頷きながら、返事を返す孝。
「そうだ。営業の金田孝というものだ。君の名は?」
「私は山田玲子。秘書課に席を置いているわ」
背の高い、スラリとした体型の女だった。
秘書課ということからも、元の顔はたぶん相当な美人だったのだろうと思われた。
制服の胸のあたりについているネームプレートに目をやる。
同じ名前が書かれていた。
しかし知らない名前だった。
無理もない。
この会社の建物の中には数百人の人間がいるのだから、全員の顔や名前など覚えているはずがないのだ。
「君はなんで会社なんかにいるんだ?」
「このおかしな事が起こる前の日から泊り仕事をしていたのよ。そして気がついたらこんな状況になって外は大パニックの危険な状態。帰ることなんて出来なかったわ」
「そうか…・・・・」
「ところであなた、なんでこんな暑いのにセーターなんて着ているの?」
「ああ、実は……」
孝は梢とのいきさつを話し始めた。
もしかしたらこの女が梢のことを知っているかもしれないからだ。
女は黙って聞いていた。
梢の名前を出してもリアクションがないところをみるとたぶん知らないのだろうが、念のため聞いてみた。
「梢さんねぇ……」
「知っているのか?」
孝は尋ねるが、女は別の話題を振ってきた。
「その前にちょっと聞きたいのだけれど、田中昇という名前に覚えはなくて?」
女もまた、人を探しているようだ。
だから会社にいて、わざわざ自分であることがわかるようにネームプレート付きの制服を着ているのかもしれない。
しかし、残念なことに、彼女が口にした名前に心当たりはなかった。
「すまんな、知らん名前だ」
「そう……」
女はうつむきながら、そっけなくそう言った。
そしていくつか気になることを聞いてみた。
「パニック後の東京の状況は?」
「水や食料はやはりないのか?」
「会社の人間は他にいないのか?」
いずれも孝が望まんとする回答を得ることはできなかった。
『もうこれ以上ここにいても仕方がないな』
そう思った時に女は孝に話しかけてきた。
「ねぇ、実はお願いがあるんだけど聞いてもらえないかしら?」
「すまんが、こちらもグズグズしていられないんだ。申し訳ないが……」
「梢さんのこと、聞きたくないのかしら?」
女はとっておきと言わんばかりに、梢の話題を切り出した。
「梢のことをなんか知っているのか?」
「ええ。話してあげてもいいわ。その代わり……」
女が言いかけたところで孝はさえぎるように言った。
「そのかわり、手伝ってくれたら教えてあげる、だろう?」
何度目だろうか?
ここに至るまでの道中に取引を持ちかけられた回数は。と孝は述懐した。
だが、この女が言っていることははたして本当だろうか?
嘘か?
しかし、もしかしたら本当になにかを知っているのかもしれない。
いったいどっちだ?
熟考。
まもなく答えを出す。
「いいだろう。取引だ。しかし、もし情報が嘘だったら……」
なかば脅すように取引の許諾をした。
「いいわよ、もし私の情報が気にいらなった場合は、覚悟しているから」
女の頼み事はこうだった。
田中昇の家に行くのに同行してほしい、と。
東京は人口も多いだけに、その分外の危険度は高い。
実際、暴漢もうようよしている。
孝も東京に入ってからここに来る道中、誰かが暴漢に襲われているところを何度か見かけてきた。
それだけに女の一人身で出かけるのはさすがに怖いのだろう。
また、この女の場合相手の男が会社を訪ねてくることを考慮して、その場を離れられないという事情もあったのかもしれない。
「ここからどれくらいかかるんだ?」
後ろに女を乗せ、自転車をこぎながら尋ねる。
「さあ、自転車で行ったことないからわからないけど、二、三十分もあればつくんじゃないかしら?」
行先は会社から少し離れたところにある独身寮だった。
実家暮らしの孝には縁のない場所だが、地方出身の社員たちはこの寮に入ることが多い。
そのことから考えると、探している男も自分と同じくらいの年齢なのかもしれない。
「こんなこと言うのもなんだけど、あなた、よく生きて大阪から東京までこれたわね」
女が話しかけてきた。
「ああ、でもいっぱい危険な目にもあったよ。死にかけた目にも何度かあったしな」
この短い間に起きたさまざまなエピソードが孝の脳裏に去来した。
図書館の少年、変わった女、自称元詐欺師……。
みんなどうしているのだろうな、などとふと思った。
「人類って、どうなるんだろうね、この後」
女はぽつりとつぶやいた。
「どうもこうもないさ、生きるやつは生きるし死ぬやつは死ぬ。それだけさ」
「そうね。もう以前のような暮らしには戻れないでしょうね」
「だが、生きていればいずれ、この暮らしにも違和感はなくなるだろう。人間は環境になじむ生き物だからな」
が、しかし、孝自身、この世界で生きていけるかどうかというと……一人では無理だろうな、と思った。
そう、梢がいなければ。
「昔と今、どっちがいい?」
女が訪ねた。
孝は即答する。
「そりゃ、以前のほうがいいに決まっているさ。そうでなければこんな目に合わなくて済んだんだからな」
「そうね。そうよね」
自分に言い聞かせるように、女はつぶやいた。
「でも、なぜそんなことを?」
一瞬間があった後、女はしゃべりだした。
「人によってはこの状況のほうがいい場合もあるのかなって。差別されていた人や借金がいっぱいあって逃げ出したかった人、それに人目を忍んで恋をしている人やこんな状況になって初めて分かることとか……あの頃の世間からドロップアウトしたかった人たちには、もしかしたらいい世の中が到来したといえるんじゃないかな、と思ってね」
「……」
孝は思った。
かつて図書館の少年がイジメられていたが、こんな世の中になってよかったと言っていたことを。
案外この奇病を作ったやつも、そういう考えをも持つ人間だったのかもしれない。
そんなことを考えているときに、またも女が話しかけてきた。
「ここを右よ。そうしたらもう少しよ」
「了解」
孝はさらにペダルに力を込め、自転車を加速させた。




