第1章 第42話 呼び声 *
いつまでも目覚めの時が来ないような深い睡魔が全身を包み込んだままの時間が続く。窓の外からインクの鳴き声が小さく聞こえてくる。まるで別の世界から誘いかけてくる艶かしい女性の声のようだ。
***** ノート *****
ノートを書き始めてもう何年になるでしょうか。皮の綴じ紐も切れかけているので、このままだとノートとしての体裁を保つことさえできなくなりそうです。月日の経つのはほんとうに早いものです。
今書いているノートが3冊目になります。紙を大切にするように少しの隙間も無駄にしないように心がけてきましたが、このノートが用意してきた最後の1冊になります。最近は、ノートの残り少ないページと自分の島での生活が重なっているようにさえ感じます。あと何年書き続けられるでしょうか。ページがなくなったときが、私がこの島を離れる時になるのでしょうか。
ひと夏の予定でこの島に来た日が昨日のように思い出されます。今では、だれも私が生きていると思ってないかもしれません。もしそうだとしたら、このノートをいつの日にか誰かがみつけてくれることを祈るばかりです。それすら叶わないことになれば、この島はまた永遠に閉ざされただれも知り得ない世界に閉じ込められてしまうのです。
いつの日か、このノートがリアヌシティの人の手に届くことを信じるのであれば、町の人に向けてもっと書き残しておかないといけないと思います。
市の統合直前のあわただしいときに後輩だったトエル君とアシスタントのエミル嬢に仕事を任せて出てきてしまいましたがうまくやってくれているでしょうか。新聞社の事業拡大がどうなったかだけはこちらに来ても気になるところです。
あのころ話題になっていた新しい銀行という会社との話はどうなったでしょうか。失われた子供たちというところから来た人がその話を持って来ていたと思います。編集長は銀行という仕組みが世界を変えるのだとよく言っていました。私にはよくわかりませんが、大きな仕事が自由にできるようになるというような話でした。ほんとうに大きくなることがみんなの幸せにつながるのかはわかりません。今この島に来て強く感じることのひとつです。
間借りをしていたエリムおばさんにはとても申し訳なく思っています。おばさんのつくる野菜いっぱいのシチューはとてもおいしかったのを思い出します。自分の生活も省みないで私のことをいつも気にしてくれていた人だから、借りていた部屋を今でもそのままに残してくれているかもしれないと思うと心が痛みます。もし、そうであれば、よく利用していたカフェのアビムさんに預けてきた蓄えはすべてエリムおばさんに部屋代としてお渡ししたいと思います。もちろん足りないのはわかっていますから、多少の足しにでもなればということですが。廊下を照らす蝋燭の足しにでもしていただければと思います。冬のすきま風も身体によくないですから、壊れた窓の修理にも使ってもらってもいいかもしれませんし、直せなかった入り口の駆け上がりの欠けたところで怪我をされないかと心配です。
街の記憶を思い出しながら書いていると、楓の森やエルド川のほとりのレンガの道までもが懐かしく思い出されてきます。毎日通勤で通った道で、毎朝庭の花の世話をしていたあのお嬢さんはもうどなたかのご婦人となられてしまったでしょうか。今でも湖の花を探しに出かけられているでしょうか。そんなことを考えていると、過ぎ去ってしまった時間の長さについて改めて考えさせられます。
***** ノート *****
ページをめくっていくと、町のことを書いているところはあちらこちらにあった。これまでメーンランドに行くことなどまったく考えてもみなかったのでこれまで目にとまることもなかったのだけれど、こうして読み直してみるといろいろなところに書き残されていたことに気づく。ふるさとへの郷愁はどんなときも消えることはなかったのだろう。
半分ほど見たところで、昨夜から溜まっている疲れで身体に押しつぶされるような重さを感じるようになってきた。字を追う目も瞼で閉じられることが多くなってくる。うとうとしては目覚め、目覚めてはうとうとする繰り返しが夕方まで続き、現実の時間とノートの時間の境目がわからなくなるほどに意識が混じり合っていった。一瞬見る夢の中でメーンランドの石畳を歩く自分も見えた。石畳の先にエリムおばさんの家も見える。一歩一歩踏みしめる足の裏には石畳のごつごつした感触が伝わってくる。そして、薄紅色の花の咲き乱れる庭で花摘みをしていたおばさんがこちらに向かって手を振ってくれた。その声はおかえり、ソダーさんと言っているように聞こえた。




