最終話 パルクフェルメ
「……モォォー……ッ、ガクッ、ボォォ……」
1速でレブリミットぎりぎりまで引っ張り、一気に3速へ叩き込む。
だが、大きく離れたギア比のせいで回転が落ち、アクセルを踏んでも速度が乗らない。スイフトは底なし沼に足を取られたように、重苦しく坂を登っていく。
「加速しない……! 全然、立ち上がらない!」
和希がステアリングを叩く。
ルームミラーの向こうでは、後続の競技車たちのライトがじりじりと距離を詰めてきていた。リエゾンとはいえ、待ってはくれない。
「むしろ抜いて行ってくれ……!」
思わず悲鳴のような声が漏れる。
だが一般車の対向もある。道を譲るだけの余裕など、どこにもなかった。
「いいから、アクセル床まで踏んで! この登りさえ越えれば、次は下りで乗せられる!」
楓はラリコンの時計と、ロードブックの残り距離を交互に追う。
2速がない。
アップダウンの激しい峠道では、それだけでこのラリー車の心臓をひとつ失ったも同然だった。
死んだ2速。
無事かどうかも分からないオイルパン。
そして、さっきから鈍いままのエンジンの反応。
青いスイフトスポーツは、もはやまともな競技車とは言いがたい状態だった。
それでも和希は、アクセルを緩めない。
3速のままノッキング寸前の振動に耐え、じりじりと速度を乗せていく。
時速40キロ、50キロ――。
対向車が途切れた直線で、ようやく後続車たちが横をすり抜けていった。
「なんで、こんな登りばっかなんだ!」
「……うるさいわね。見えた! 最終TC看板!」
楓が叫ぶ。
TCイン予定時刻まで、残り一分。
和希は速度を落として1速へ入れ、オフィシャルの前までスイフトを進めた。
楓は窓を開け、タイムカードを握り締めたまま時計を睨む。
あと少し。
和希には、その数秒がやけに長く感じられた。
指定の時刻に数字が切り替わる。
楓がタイムカードを差し出した。自分の手が泥で汚れていることにも気づかないまま。
オフィシャルのペン先が動く。
返されたカードを確かめ、楓が頷いた。
「……完走よ。ペナルティもなし」
それを聞いて、和希はようやくステアリングを握る手の力を緩めた。
パルクフェルメへ向かう最後の数十メートル。
2速なしでリエゾンを走りきった実感が、泥だらけの二人の胸へゆっくりと染み込んでいく。
指定の位置に車を止め、エンジンを切る。
カン、カン、と熱を持った金属が冷えていく音だけが、静まり返った車内に残った。
「直すの、大変そうね。これ」
楓がヘルメットネットから自分のヘルメットを抱え上げ、苦笑する。
「ああ。ミッション、ホイール、もしかしたらオイルパン……。今月の給料、全部飛ぶな」
和希も笑った。
泥と油にまみれた顔で、それでも不敵に。
泥と雨に翻弄されながらも、この車をここまで連れ帰った。
その手応えだけは、たしかにそこにあった。
「でも、クラス2位よ。……次は、1位を獲りに行くわよ。ミッション、クロス組んじゃう?」
「……勘弁してくれよ。探したって出てこない」
二人は泥だらけの拳を、力強く合わせた。
北海道の広い空の下、青いスイフトスポーツは次の戦いに向けて静かに眠りにつく。
――数日後。
和希は、深く溜息をついた。
「さよなら、俺の昼メシ」
ミッション。
ホイール。
タイヤ。
そして、オイルパン。
高額な見積書を前に、和希は机へ突っ伏した。




