第8話 SS4
フロントウィンドウを叩く雨は、さらに激しさを増していた。
泥にまみれた腕で、届く範囲の石だけをどうにか掻き出し、和希たちはぎりぎりでSS4のTCへ滑り込んだ。
そして、SS4のスタートライン。
和希は軽くアクセルを煽り、エンジンのツキを確かめる。
「……トルクが少し細い。上が回りにくいな」
「……了解。立ち上がりで速度を失いたくないわね。……これが最終SSよ!」
楓がラリコンの数字をスタート時刻へ合わせ、ノートの最終セクションを開く。
オフィシャルの手が動いた。
「10、9、8……」
和希はサイドブレーキを握り込む。
まだ奥に石が残っているのだろう。車体全体が不規則に震えている。
それでも、その振動は和希に「まだ走れる」と告げていた。
「5、4、3、2、1……スタート!」
クラッチミート。
エキゾーストノートが、雨の森へ鋭く放たれる。
1速、2速、3速。
加速の伸びは午前中ほどではない。和希はそれを補うように、ステアリングを慎重に切り込み、狙ったラインをなぞった。
「100、右4、ショート! 次、左3クローズ、絶対に外さないで!」
楓のコールが、かつてなく鋭い。
パワーが落ちている。出口で失速させれば、速度を取り戻すまでに時間がかかる。
和希は横滑りする車体を、繊細なアクセルワークで前へ押し出し続けた。
――バラバラッ、ガッツン!
車体の下から大きな音が響く。
残っていた石が落ちたのか、それとも別の何かが砕けたのか。
「……和希、あと3キロ! この先の高速セクション、インカット気味に突っ込んで!」
「了解……! 壊れてもいい、持てよスイフト!」
泥水を跳ね上げ、霧に包まれたストレートを駆け抜ける。
ホイールを歪ませ、泥の川を越え、今度は見えないダメージまで抱えている。
それでも青いスイフトスポーツは、最後の光電管を目指して走り続けた。
「……見えた!」
「フィニッシュ!」
楓の叫びとともに、光電管を抜ける。
和希はフルブレーキングへ入った。だが、泥水を吸ったブレーキは制動を鈍らせ、スイフトは止まりきれずに前へ滑っていく。
「停まれ……っ!!」
ロックしかけるタイヤをペダルワークでなだめ、ストップのテント前で、ようやく車体が止まった。
和希が詰めていた息を吐く隣で、楓は窓を開け、タイムカードを差し出す。
マシンの限界と、自分たちの限界。その両方を削りきったようなSSが終わった。
返されたカードを受け取ると、楓が頷く。
和希はゆっくりと車を進め、ストップを過ぎてから、安全なリエゾンの路肩へ寄せた。
二人はようやくヘルメットを脱ぎ、深く息を吐く。
泥と汗で汚れた顔のまま、お互いの健闘を称えようと和希が口を開きかけた、そのときだった。
「……っ、おい。嘘だろ」
和希の指先が、シフトレバーに触れたまま止まる。
「どうしたの? SSは全部走り切ったのよ。クラス3位……ううん、2位も狙えるタイムよ!」
楓がリザルト表示のある携帯を握り、弾んだ声で言う。
だが、和希の顔からは一瞬で血の気が引いていた。
「……ミッション、逝った」
「は?」
和希は答える代わりに、クラッチを踏み込み、シフトレバーを左下――2速へ叩き込む。
――ガギッ!
噛み合いかけた瞬間、弾き返される衝撃。
レバーはゲートへ吸い込まれず、無情にニュートラルへ跳ね戻された。
「……2速が弾かれる」
もう一度、今度は力を込めて引き込む。
だがギアが噛み合う手応えはなく、虚しく金属が拒絶する感触だけが掌に残った。
「……うそ。SS4の最後、あんなに回してたのに」
「シンクロか、シフトフォークだな。どっちにしても、2速は死んだ」
和希は、何度もニュートラルへ戻されるレバーを見つめた。
ラリーはSSを走り切れば終わりではない。サービスパークへ戻り、パルクフェルメへ入るまでが競技だ。
ここから先のリエゾンを、使用頻度の高い2速なしで走り切らなければならない。
「……1速と3速は入る。だが、この先はアップダウンのきつい峠道だぞ」
楓は一瞬で絶望を飲み込み、ロードブックを開いた。
「……泣き言を言ってる暇はないわ。TCまであと27分。1速で引っ張って、3速へ飛ばして。回転を合わせれば繋がるはず」
「……やるしかない、か」
「そうよ。車を止めないで。最後まで走りきるの!」
和希は1速へ入れ、無理やりクラッチをつないだ。
引っ張れるだけ引っ張ってから2速を飛ばし、3速へ押し込む。
大きく離れたギア比のせいで回転は急激に落ち、パワーバンドを外れたM16Aが苦しげに唸った。
加速しない。
それでも青いスイフトスポーツは、最後のTCが待つサービスパークへ、必死に這うように進み始めた。




