第7話 SS3
サービスパークの出口、TC本看板を抜けた直後だった。
青いスイフトスポーツのフロントウィンドウに、ぽつり、と大粒の雨が落ちた。
和希がワイパーを一度動かす。
撥水コートをかけたばかりのガラスの上で、水滴が弾け飛んだ。だが、すぐに次の雨粒が打ちつけ、ルーフを叩く音がたちまち重なっていく。
「……降ってきた。土が吸い込みきれない量だぞ、これ」
低く呟き、ワイパーを連続作動に切り替える。
リエゾンのアスファルトは、見る間に黒く濡れていった。
「嫌な記憶が蘇るわね……去年のあのスピン、まだ忘れてないわ」
楓はあえて口に出した。
蓋をするより、共有して警戒を上げる。それが彼女なりのリスクマネジメントだった。
「楓、さっきの『右4タイトゥン2クローズ』。あそこ、一段落として『右4タイトゥン1』に書き換えてくれ。あの泥の量にこの雨だ。2の速度じゃ、今度はホイールだけじゃ済まない」
「了解」
楓は短く返し、ペースノートの該当箇所に鋭くペンを走らせる。
ドライバーが「1」と言えば、それは「1」として読む。車内では、それが絶対だった。
「書き換えたわ。『右4タイトゥン1、キープイン、クローズ、水溜まり注意』。……和希、他も落とす?」
「いや、ほかは入ってみないとわからない。……ただ、コールは一拍早めてくれ。視界が悪くなるぶん、先に情報を入れたい」
「了解。早めに入れる。……ほら、SS3のTCが見えてきた。覚悟を決めなさい」
雨に煙る森の入口。
赤いTC看板の下で、重そうなレインコートを着たオフィシャルが待っている。
和希は予告看板の手前に車を停めた。
二人は無言でヘルメットネットからヘルメットを取り出す。
和希は被る直前、一度だけ深く、雨を含んだ土の匂いを吸い込んだ。
「……行くぞ」
「ええ。期待してるわ」
インターコムのプラグを差し込み、装備を整える。
ワイパーが雨を左右へ弾くたび、フロントウィンドウの視界が歪んだ。
青いスイフトスポーツはTCを抜け、SS3のスタートラインへ据えられる。
スタート予定時刻は13時18分。
あと二分だった。
和希はカメラの電源を入れる。
車内には、ルーフを叩く激しい雨音と、アイドリングの微かな振動だけが満ちていた。
楓はラリコンとタイムカードを確認し、手元のノートを握り込む。
オフィシャルが「30」のボードを掲げた。
三十秒前。
「……和希。さっきの『右4タイトゥン1』、あそこはもう川だと思って。絶対に欲張らないで」
「わかってる。……でも、タイムは落とさない」
和希は一速へ入れ、サイドブレーキを握る。
タコメーターの針を四千回転付近で安定させた。
十五秒前。
「10、9、8……」
楓のカウントダウンが、インターコム越しに脳へ染み込んでくる。
オフィシャルの指が、一本ずつ折られていく。
「5、4、3、2、1……スタート!」
声と同時に、和希は繊細にクラッチをつないだ。
青いボディが泥水を跳ね上げ、一瞬のホイールスピンののち前へ蹴り出される。
視界はたちまち茶色い飛沫に染まった。
「150、エンド左5、オープン、水溜まり注意!」
楓のコールは、要求どおり一拍早い。
三速、四速。加速するほど、ステアリングから手応えが抜けていく。
タイヤが路面ではなく、水の膜の上を滑っているような浮遊感だった。
「……滑るな。スカスカだ」
「信じて! 次、50、右4、タイトゥン1、キープイン、クローズ! 泥、深いわよ!」
例の勝負どころが迫る。
和希は午前中のSS1より、はるか手前でブレーキングを始めた。
二速、そして一速。
フロントウィンドウの先で、右コーナーのイン側から茶色い泥水が川のように路面を横切っている。
――バシャッ!
激しい衝撃とともに、大量の泥水がエンジンルームとホイールハウスを叩いた。
トラクションが一瞬抜ける。スイフトの鼻先が外へ逃げた。
「……っ、回れ!」
和希は無理にこじ開けず、アクセルを細かく調整しながら荷重を乗せ続ける。
歪んだホイールで耐え切ったSS2の経験が、右足に限界の縁を教えていた。
「……抜けた! 次!」
「100、クレスト! その先、見えないけど全開でいいわ、私がついてる!」
泥と雨に視界を奪われながらも、和希は楓の声を頼りにアクセルを踏み抜く。
青いスイフトスポーツは泥まみれのまま、荒れた森の奥へ消えていった。
「――フィニッシュ!」
楓の叫びとともに、泥水の幕を裂いて光電管を抜ける。
猛烈なブレーキングの最中、和希の耳が異音を拾った。
――ガラガラ、ゴロゴロ……。
アイドリングへ落ちる直前、回転とは同期しない低い金属音。
ストップまでのわずかな距離、和希はアクセルを煽らず慎重に転がした。
「和希、タイム上がってる! この雨でよくでき……和希?」
ストップでタイムカードを受け取り、興奮気味に横を向いた楓の言葉が止まる。
和希は前を見据えたまま、眉を寄せていた。
「楓、静かに。……変な音がする」
雨音に紛れながらも、車体の下から不気味な異音が続いている。
リエゾンへ入り、安全な路肩にスイフトを停めた。
二人はインターコムを抜き、ヘルメットを脱ぐ。和希が窓を開けると、雨の匂いとともに、さっきよりはっきりした金属音が聞こえた。
「……聞こえるだろ?」
「ええ。下ね」
二人は雨の中へ飛び出した。
「リヤじゃない。フロントよ。右……いや、左?」
楓が屈み込み、泥だらけのホイールハウスを覗き込む。
和希はフロントバンパーの下へ手を差し込み、アンダーガード付近を探った。
「……石だ。それもでかいのが入り込んでる」
さっきの『タイトゥン1』の川で、泥と一緒に跳ね上げた石が、アンダーガードとサブフレームの隙間にがっちり噛み込んでいた。
その周りにも小石が詰まり、エンジンの振動に合わせて嫌な音を立てている。
「……ただの石ならいいけど。ドラシャのブーツ、破けてない?」
「……いや、ブーツは無事……だと思う。暗くてよく見えない。だが、ガードの上にも石がみっちり詰まってる。オイルパン、大丈夫か……?」
和希は泥まみれの腕で石を掻き出そうとするが、奥の隙間には指先しか届かない。
「あと一本……SS4があるわよ」
楓が車内のラリコンを覗き込む。
SS4のTCまで、もう余裕はない。
「……掻き出す。長めのレンチを出してくれ!」
「和希、あと三分で動かないと間に合わないわよ!」
「わかってる! 一分で終わらせる!」
雨の中、泥と油にまみれた二人の、執念の野外整備が始まった。




