第1話 沈黙のスイフトスポーツ
あれから数日。
ラリーの興奮が冷めるより先に、長谷川和希は現実へ引き戻されていた。
定時退社を告げるチャイムと同時に、和希は勤め先の建築会社を飛び出した。
最近、人手不足を理由に上司から「現場に出ないか」としつこく打診されている。だが、土日祝休みと定時退社を失えば、ラリーを続ける時間は消える。
のらりくらりと誘いをかわし、愛用のツナギを抱えて向かったのは、街外れにある古い修理工場だった。
シャッターの隙間から漏れるオレンジ色の光と、染みついた機械油の匂いが和希を迎え入れる。
「よう、稀昭。進み具合はどうだ?」
リフトで高く持ち上げられた、泥を落としきった青いZC31Sスイフトスポーツ。
その下に、細身の男が潜り込んでいた。
「あ、和希。お疲れ。ミッション、降ろしておいたから見てみて」
上山稀昭。
和希の幼馴染であり、この工場の主だ。数年前、廃業した古い工場を借金まみれになりながら買い取り、自分の城として蘇らせた男でもある。
「……あれ? おかしいな。さっきまでそこにあった12のメガネ、どこ行ったかな」
首を傾げる稀昭に、和希は呆れたように笑う。
「お前の後ろのジャッキの上だよ」
「あ、本当だ。ありがとう。どうも僕、集中すると周りが見えなくなっちゃって」
腕は確かだが、工具をよく“神隠し”に遭わせる。
それが稀昭の、数少ない抜けたところだった。
和希は苦笑しつつ、持参したツナギに着替え、取り外され、すでに分解されたトランスミッションへ歩み寄る。
焼けたギヤオイルの異臭が鼻を刺した。
「……ひどいだろ? 2速のシンクロだけじゃなくて、ハブまで逝ってる。和希、相当無理したでしょ」
傷んだ部品を指差し、稀昭が眉を下げる。
口調は穏やかでも、メカニックとしての目はごまかせない。
「いや、SSの中じゃ普通に入ってたんだよ。走りきって、リエゾンで消えた。……オイルパンはどうだった? 見積りに入ってたけど」
その一言で、稀昭の表情が少しだけ引き締まる。
「あそこが一番危なかった。アンダーガードの隙間に石が大量に詰まってて、その塊がアルミパンを下から強く押してたんだ。小さいクラックが入って、じわじわ滲んでた」
「……マジか」
「あと少し気づくのが遅れてたら、オイルが落ちきってエンジンごと終わってたかもしれない。M16Aが生きてたの、本当にギリギリだよ」
和希は黙って、まだ外されていないオイルパンを下から見上げた。
もしエンジンまで焼きついていたら、昼飯代どころの話では済まなかっただろう。
「とりあえず、ミッションの部品は明日発注かけるよ」
「すぐ来ないんだよな」
「うん。ほとんどメーカー手配になると思う」
買った時から、そうだった。
古くなった車に乗るということは、走らせる以前に部品と付き合うことでもある。
稀昭は油まみれの手をウエスで拭い、小さく息をついた。
その横顔に、疲れが滲んでいる。
高校時代から整備工場でアルバイトを続け、自動車短大を出たあとはディーラーメカニックとして働いていた。そうして腕を磨いてきた稀昭の工場には、今では駐車場に整備待ちの車が並ぶほど客がついている。
説明が分かりやすく、客当たりも柔らかい。ひとりで工場を回しているせいで事務所は少し雑然としているが、ピットだけはいつ来てもきっちり整っていた。
その忙しさを知っているからこそ、和希は自分のわがままな趣味に幼馴染を付き合わせている後ろめたさを覚えた。
「……稀昭、家の方はどうなんだ。涼音さんは?」
「姉さんは相変わらず。でも最近は少し調子がいいみたいで、車椅子のまま料理しようとして、ばあちゃんに怒られてるよ。……問題は藍華の方かな」
稀昭は苦笑しながらも、すぐに表情を曇らせる。
「昨日も警察から電話があってさ。また揉め事に首を突っ込んでたみたいで。今月三回目。毎回連絡をくれる安堂さんにも申し訳ない」
「……相変わらずだな」
足の悪い姉と、危なっかしい妹。
稀昭は自分ひとりの腕で、その両方を支えている。
「……悪いな。お前も大変なのに」
「いいよ。和希には愚痴くらい言わせて。……あ、そういえば昼間、結城さんが来てたよ」
和希が顔を上げる。
「楓が?」
「うん。差し入れだって、エナジードリンクと栄養剤を置いていった。『和希を過労死させないでね』って言いながら」
作業台の隅には、青い缶が何本も積まれていた。
和希はそれを見て、呆れたように、それでも少しだけ口元を緩める。
結城楓。
和希のコ・ドライバーであり、和希が勤める『結城工務店』社長の孫娘でもある。
和希が大学進学を諦めた後のことだった。
「定時で帰れて土日祝が休める仕事はないか」と、あまりに身勝手な条件を口にした時、当時バイト仲間だった楓が、自社の事務員の枠を回してくれたのだ。
もっとも当の本人は家業には入らず、別の会社でWEBデザイナーとして働いているのだが。
「あの子も、口は悪いけど和希のこと信頼してるんだね」
「……信頼してなきゃ、あんな状況で『アクセル踏み抜け』なんて言わないだろ」
和希はエナジードリンクの缶を一本手に取り、黒いオイルにまみれた部品へ視線を戻す。
修理工場の夜は、まだ長い。
消えた昼飯代。首の皮一枚で生き残ったM16A。
そして、沈黙を貫くZC31Sスイフトスポーツ。
リフトの上の青い相棒が、再び走れるようになるのを待っていた。




