第5話 SS1
リエゾンでのミスコースを挽回し、青いスイフトスポーツがSS1のTC予告看板手前へ滑り込んだのは、TCイン予定時刻のわずか二分前だった。
「間に合った……!」
和希が荒い息をつく。だが、息を整える暇はない。
停車するなり、二人はヘルメットを被った。顎紐を締め、HANSとヘルメットを繋ぐストラップを確認し、インターコムのプラグを差し込む。ベルトを締め直す間にも、時間は過ぎていく。
楓はラリコンの時計と、前方のTC予告看板を交互に見比べた。
「……あと十秒。……五、四、三、二、一。はい、進入」
TCイン予定時刻の一分前。
和希はブレーキを緩め、スイフトをゆっくりと予告看板の先へ進めた。赤いTC本看板のそばで待つオフィシャルへ横付けし、楓は時計を睨む。
早着は即ペナルティ。この数秒の“待ち”すら、ラリーの一部だった。
指定の十時十二分ちょうど。
楓が開けた窓からタイムカードを差し出す。
「お願いします」
オフィシャルが手際よく時刻を記入し、カードを返してきた。
チェックイン 10:12 / スタート予定 10:15
わずか三分。戦場へ飛び込むまでの猶予は、それだけしかない。
和希は車を前へ進め、スタート地点へ向かう。
そのあいだに楓がラリコンへスタート予定時刻を打ち込み、スタート担当のオフィシャルにタイムカードを渡した。返されたカードに記された時刻を、もう一度確かめる。
「和希、カメラ電源オン!」
「了解」
和希は素早く確認を終え、再び前方へ意識を戻した。
車内には、インターコム越しのお互いの少し速い呼吸だけがノイズ混じりに響いていた。
フロントウィンドウの向こうで、オフィシャルが「30」のボードを掲げる。
三十秒前。
「……あの右4ロング、タイトゥン2、キープイン、クローズ。泥に気をつけて。ノートは完璧。私がついてる」
楓の声が、ヘルメット越しに和希の脳へ真っ直ぐ届く。
和希は一速へ叩き込み、サイドブレーキを握り込んだ。アクセルを煽るたび、タコメーターの針が跳ね上がる。
十五秒前。
十、九、八――。
オフィシャルの指が一本ずつ折られていく。
スタートシグナルは、なぜか点灯していない。トラブルか。そんな考えが一瞬よぎる。だが楓は迷わず数を刻んだ。
「五、四、三、二、一……スタート!」
その鋭い声と同時に、和希はクラッチをつないだ。
青いスイフトスポーツが前輪で路面を掻き、静かな森へ咆哮を放って飛び出す。
巻き上げた土煙が、背後のスタートラインを覆った。
リエゾンでの険悪な空気は、一瞬で戦うための呼吸に塗り替わっていた。
一速、二速、三速。
M16Aが高回転域で鋭い音を響かせ、和希の背中をバケットシートへ押しつける。
「100、右4、ロング、タイトゥン2、キープイン、クローズ!」
楓の声が、インターコムを通して脳内へ叩き込まれる。
レッキの倍以上の速度。景色が線となって流れ去る中、和希は右足でブレーキを蹴り込み、左足でクラッチを切り、右の踵でアクセルを煽った。
鋭いブリッピング音。フロントへ確かな荷重が乗る。
ステアリングを切り込み、クリップを探る――その瞬間だった。
「……っ、泥!」
和希が叫ぶ。
レッキの時とは比べものにならない。前走車に掻き出された粘土質の泥が、イン側からアスファルトへ黒く広がっていた。
フロントタイヤがそこへ乗り、一瞬でグリップを失う。
スイフトの鼻先が、インではなくガードレールのない外側の崖を向いた。
「インに寄せて! 抑えて!」
楓の声は驚いていても、震えてはいなかった。
ノートから顔を上げ、迫る路肩へ目を走らせる。和希がアクセルを抜きかけるより先に、さらに鋭く言葉を重ねた。
「抜かないで! 滑らせて回して!」
和希は反射で、サイドブレーキを一瞬だけ弾いた。
リアを強引に振り出し、泥の上でスイフトを横へ向ける。
同時にアクセルを全開で踏み込み、前輪の駆動で車体を無理やりインへ引き戻した。
――ガツッ。
リアホイールが路肩の岩へ当たる鈍い音。
それでも青いボディは、かろうじて閉じていく出口をすり抜ける。
「……抜けたか!?」
「50、左3、オープン! まだ止まらない、次!」
楓は安堵する暇すら与えない。
視線はすでにノートへ戻り、指先は次の暗号をなぞっていた。和希も冷や汗を拭う余裕なく、再びシフトアップを重ねる。
(……これだ。このリズムだ)
心臓が口から飛び出しそうな恐怖。
それでも、隣から響く迷いのない声が、和希に限界の先を走る許可をくれる。
「……リア、どっか打った!? パンクは!?」
短いストレートで楓が問う。
「バタつきなし、真っ直ぐ走ってる!」
「了解! いけるわ、攻めて!」
青いスイフトスポーツは泥を跳ね上げながら、さらに森の奥へ加速していく。
「――左3、100、フィニッシュ!」
楓の鋭い声が響き、青いスイフトスポーツはフライングフィニッシュの光電管を駆け抜けた。
フルブレーキング。
和希は時速百二十キロの世界から、現実の速度域へ引き戻される。
「ストップまで、右5から3、60よ」
ストップへ向かうわずかな区間で、和希は一度だけステアリングを握る手の力を緩めた。
速度が落ちると、走行中の激しい揺れに紛れていた細かな振動が、シート越しに伝わってくる。
「……和希、リア、やっぱり打ってるわよね?」
「……ああ。細かい振動が来る。周期的なバイブレーションだ。リムが曲がって、バランスが狂ったな」
「……パンクじゃないのね?」
「ああ。タイヤが潰れる感触はない。だが、次のSS2までこのまま持たせるしかない」
ストップでタイムカードを受け取った楓の表情が引き締まる。
「……和希、休んでる暇はないわよ。ここからSS2のスタートTCまで、リエゾンの猶予は最小限。タイヤ交換してる余裕はない。サービスもSS2のあと」
「……わかった。車の様子を見ながらいく。まだ勝負は捨てない」
「いいわ、その意気よ。さあ、SS2のTCまで余裕はゼロ。ヘルメット被ったまま、次へ急いで!」
青いスイフトは、歪んだホイールが刻むかすかな震えを引きずりながら、次の戦場へ鼻先を向けた。




