第3話 林道の門番
東の空が白み始めた頃。
林道の入り口に設けられたレッキのスタート地点に、野太い排気音が次々と響き渡ってきた。
「おはようございます。ゼッケン確認します。レッキ指示書、出してください」
バインダーを抱えた和希が、窓を下ろした競技車に近づき、事務的な声で話しかける。
差し出されたレッキ指示書を受け取り、通過時刻と自分のサインを記入して返した。
レッキに来るのは、本番を走る競技車だ。
ロールケージが張り巡らされた車内には、二名分のバケットシート。ヘルメットこそ被っていないものの、そこに座るクルーたちは、これから始まるラリーへ意識を向けている。
書類を返すたび、目の前の一台が林道へ入っていく。自分だけが、この場に残される。
分かっていて引き受けた仕事なのに、これが思った以上に堪えた。
「おっ? あれ、和希じゃん! なんでタバードなんて着て外に立ってんの?」
一台の黄色いZC33Sスイフトスポーツが、和希の前で止まった。
運転席からニヤニヤと笑いかけてきたのは、同じRA-2クラスを戦う顔見知りだった。
「……前回のSS6でドラシャ折って、修理代でスッカラカンになったんだよ。いいから早く用紙出せ」
「マジか! アハハ、ZC31Sの維持費に泣かされてオフィシャル行きとか、ウケるな!」
「うるせえ! お前だって前回ミッション降ろしてただろ!」
和希が吠えながら通過時刻を書き込んでいると、後ろで順番待ちをしていた車から、短くクラクションが鳴った。
「おーい、オフィシャルさーん! 早くしてくれよー!」
「ライバルが減って、今日は気が楽だぜー!」
窓から顔を出して野次を飛ばしてくるのは、86のドライバーや、アルトワークスのコ・ドライバーたちだ。
スイフトに86、ミラージュ、ヴィヴィオ。顔ぶれも車種も賑やかなRA-2では、和希の金欠など、格好のイジりネタだった。
「くそっ……俺の青スイフトだって、エントリー費さえあれば今頃あそこの列に並んでたのに……! 車は完璧に直ってんのに……っ!」
それでも手は止めず、サインを済ませた指示書を返す。
次々と林道へ入っていくライバルたちの後ろ姿を、和希は恨めしそうに見送った。
――――――
全車のレッキが終了したあと、和希は再び軽トラに乗り込み、本番の配置であるポスト7へと向かった。
林道の中間地点にある、S字コーナーのジャンクション。
見渡す限り、木、木、木。
一般車が誤って進入しないよう、分岐する道はダンロップテープで封鎖されている。
競技車の通り道を避けて軽トラを停めると、和希は周囲を見回した。
誰もいない。
「……暇だ」
レッキを終えたエントラントたちは、サービスパークへ戻り、車検やドライバーズブリーフィングを受けているはずだ。
和希の持ち場はSS2。手元の予定表を見ても、00カーの通過まではまだ一時間以上ある。
和希は腕時計を見て、もう一度予定表を見た。
何も変わらない。
携帯の電波はもちろん圏外。SNSで時間を潰すこともできない。
鳥の鳴き声と、風が葉を揺らす音しか聞こえない森の中で、腰に下げた鈴をチリンチリンと鳴らす。
笹が擦れるたび、ついそちらへ顔を向けてしまう。
熊ではない。たぶん、風だ。
そうして待つこと、一時間強。
すっかり森の静寂に溶け込みそうになっていたその時、サイレンを鳴らしながら一台の車が近づいてきた。
「おっ、やっと来た!」
本番直前のコースの安全確認を行うオフィシャルカー、00カーだ。
和希の前で減速して停まり、助手席からオフィシャルが顔を出した。
「ポスト7、異常ないか?」
「異常ありません!」
「よし。今日のスタートリスト。それと、お待ちかねのオフィシャル弁当だ!」
「……っ! 神様!!」
窓から手渡されたA4の紙と、ほんのり温かい地元弁当屋の幕の内弁当。
孤独に耐えていた和希は、受け取った弁当を宝物みたいに抱えた。
「じゃ、競技始まるからしっかり頼むぞ! ご安全に!」
「はいっ! お疲れ様です!」
00カーが走り去り、和希はようやくほっと息をつく。
軽トラの荷台に腰掛け、待ちに待った弁当のビニール袋をガサゴソと解き、割り箸を取り出した――その瞬間。
ブロロロロオォォォッ!!
「うおっ!?」
00カーに続いてやってきた0カーが、凄まじい排気音を響かせてジャンクションを通過していった。
巻き上がった土埃が風に流されてくる。和希は慌てて弁当を背中で庇った。
「……あー……そうだった、時間ねぇや」
0カーが通過したということは、競技車がやってくるまで、もう間もない。
遠くの山の方から、アンチラグの破裂音がパンッ、パンッと微かに鳴り響き始めている。
「……弁当、食ってる場合じゃねえわ……!!」
和希は泣く泣く割り箸を戻し、弁当を軽トラの車内へ大切に避難させた。
スタートリストをバインダーに挟み、コース外の持ち場へ戻る。
さっきまでは、あれほど待ち遠しかった排気音。
今はそれが近づく方へ目を向け、和希はバインダーを抱え直した。




