第3話 スタート公示
サービスパークの朝は早い。
まだ夜の帳が完全には明けきらず、吐く息は白い。露を含んだ北海道の冷たい空気が、出番を待つ青いスイフトスポーツのボンネットを薄く濡らしていた。
和希は冷え切ったトルクレンチを手に取った。
カチッ。
静かなサービスパークに、設定トルクに達した小気味よい金属音が響く。
ホイールナットを対角線上に、一つずつ確認していく。自らの手で確かめるこの作業が、和希の波立つ心を少しずつ鎮めてくれた。
「エア、フロント1.9、リヤ1.8。リエゾンで上がるのを見越して、低めに合わせておいたよ」
隣にしゃがみ込んだ楓が、エアゲージを片手に報告する。
「助かる。SSのスタートに並ぶ頃には、ちょうどいいところに来るはずだ」
二人はそのまま、出発前の確認を進めていった。
周囲でもエンジンがかかり始め、工具を運ぶ足音や挨拶の声が行き交う。いつしか空は明るくなり、向かいのテントの屋根に朝日が差していた。
少し離れた公式掲示板の前には、スタートリストの公示を待つ人だかりができ始めている。
和希はそちらを一瞥し、トルクレンチを片付けた。
「……楓、リエゾンのルートは?」
「今、最終確認する」
楓は立ち上がると、開けてあった助手席のドアからエアゲージをシートへ置き、ダッシュボードのロードブックを手に取った。
ドアのそばに立ったまま、コマ図を一つひとつ確かめていく。
昨日使ったのは、あくまでレッキ用のルートだ。
本番では、今日になって初めて通る区間もある。
その一箇所を見つけた瞬間、楓の表情が曇った。
「……ねえ、和希。ここ、レッキの時とルートが違う。主催者、かなり意地悪な設定にしてる」
「どれだ」
和希が隣へ立ち、ロードブックを覗き込む。
「……ほんとだ。初見だと見落とすな。ここを間違えたら、TCに遅れて余計なペナルティを食う」
「しかも、この次」
楓がページの最後のコマを指差した。
「50メートル先を右折、でしょ?」
そのままページを捲り、次のコマへ指を移す。
「その40メートル先を左折。これ、ほとんど連続じゃない」
「40メートル……? 短すぎるな」
ラリーのロードブックは、助手席で一コマずつ距離と景色を拾いながら読み進めていく。
右折を指示し、ページを捲っているあいだに、次の左折地点が迫ってくる。曲がってから確認していたのでは、間に合わない。
「ページ捲ってる間に通り過ぎるわ、こんなの。地図の上で線を引くのは簡単でしょうけど……気づけてよかった」
毒づきながらも、楓は迷わないよう太いペンでページの隅に書き込んだ。
『右後スグ左!』
SSでコンマ数秒を削る以前に、この複雑なパズルを解き明かさなければ、スタートラインにすら立てない。
それもまた、ラリーだった。
公式掲示板の前で、人だかりが動いた。
オフィシャルが張り出した紙を、待っていた選手たちが一斉に覗き込んでいる。
自分たちのゼッケンは中団だ。出発までにはまだ余裕がある。
楓はロードブックを閉じ、人の輪が少し緩むのを待った。
「……出たみたいね。スタートの正確な時間、確認してくる」
バインダーを抱えて掲示板へ向かう楓の背中を見送り、和希は青いスイフトの運転席のドアを開けた。
ロールケージを避けながら、タイトなフルバケットシートへ身を沈める。
車内に満ちる、ガソリンとオイルの無骨な匂い。
そこへ楓の持ち込んだミントガムのかすかな甘さが混じる。
そのちぐはぐな空気が、いよいよラリー当日なのだと和希の五感へ静かに染み込んでいった。
やがて楓が小走りで戻り、助手席へ滑り込む。
「スタート時刻、7時24分。準備は全部終わってる」
「ああ」
和希がキーを回す。
短いクランキングのあと、M16Aエンジンが荒々しく目を覚ました。
青いボディがアイドリングで小さく震える。
ラリー当日のスタート前。
マシンの鼓動に同調するように、心地よい緊張が和希の胸を強く打った。




