第1話 金欠フィーバー
あの焼肉の反省会から、数週間。
街外れの小さな修理工場で、和希はパイプ椅子に深く腰掛け、一枚のレシートみたいな紙を幽鬼のような目で見つめていた。
「……さんびゃく、よんじゅう、にえん」
ついさっきコンビニATMから吐き出されてきたばかりの、銀行口座の残高明細だった。
「見事なスッカラカン。小学生のお小遣い?」
「うるせえ! 人の傷口に塩塗る天才かお前は!」
横から覗き込んできた藍華が、アイスキャンディーを齧りながら容赦なく言う。
和希は頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
前戦のラリー。
魔のSS6でへし折れた左ドライブシャフト。
その修理に加え、今後の対策として左右とも競技用の強化品へ交換した結果、和希のなけなしの貯金は綺麗さっぱり消し飛んでいた。
「部品代の半分は待ってあげたんだから、ちゃんと払ってもらわないと、うちの工場が先に死ぬよ。一応、来月末までは待つけど」
リフトの下から顔を出した稀昭が、冷静に追い打ちをかける。
「お前はそれでも親友か!」
「親友だから半分待ってるんでしょ!」
「……それは、ありがとうございます」
ウマから降ろされ、四輪でしっかり地面を踏みしめた青いスイフトスポーツは、完璧に直っていた。
いつでも走れる。
なのに、ドライバーの財布だけが死んでいる。
「次戦のエントリー費で約五万。そこに遠征費、ガソリン代、タイヤ代……無理だ。どう転んでも、あと一か月半で作れる額じゃねぇ……」
「え、あとキー、次戦休むの? だっさ」
「くっそおおおぉぉぉ! 車は直ってんのに! 俺の心はいつでも全開なのに!!」
和希が椅子の背にもたれ、天井へ向かって叫んだ、その時だった。
「――だったら、走らずに稼げばいいじゃない」
カツン、と足音を響かせ、仕事帰りの楓が事務所から現れた。
いつもの涼しい顔のまま、椅子でふんぞり返る和希を見下ろす。
「主催、まだオフィシャル足りてないらしいわ。林道のコースオフィシャル」
「……エアコンは?」
「ないわよ」
一縷の望みにすがった和希の問いを、楓は一刀両断した。
「お金がなくてエントリーできないなら、裏方に回るの。競技車を安全に走らせるには、コース管理も計時も、オフィシャルが絶対必要でしょ。……R項も出るわ」
「R項?」
「平たく言えば日当」
「日当!?」
金欠ドライバーの耳が、ぴくりと動く。
「微々たる額だけどね。あと、お昼は地元の弁当屋さんのオフィシャル弁当が出るわ」
「弁当が……タダ……!」
「どうせ出られないなら、外から他の車の走りを見るのも勉強になるでしょ。ね、稀昭くん、藍華ちゃん」
楓が視線を向けると、なぜか二人は得意げに胸を張った。
「実はもう申し込んでるんだよね。僕はサービスパーク常駐の技術オフィシャル。車検とか、整備が怪しくないか見る側」
「私は楓さんの助手! エアコン効いたラリー本部で、オフィシャル弁当の仕分けとか、リザルト速報の掲示やるんだー!」
「はあ!? お前ら、いつの間に!?」
和希が目を剥く。
ドライバー本人を差し置いて、チームの面々が先に裏方の席を確保していたのだ。
「ちなみに私は計時。藍華ちゃんを助手に使って、エアコンの効いた部屋で優雅に計算する予定」
「待て待て待て! 楓と藍華は冷房ありで、俺は山奥!?」
「僕も外だからね」
稀昭のひと言を、和希は聞こえなかったことにした。
「和希はコースマーシャル。林道の奥、携帯も怪しい持ち場で、数時間ずっと競技車の安全を見守る大事なお仕事よ」
冷房の効いた本部。
サービスパークのテント下。
そして、自分だけ山奥。
「……なんか俺だけ、扱いが一番下じゃね?」
「気のせいよ。それで? 日当と、おいしいお弁当、諦める?」
「……っ! やる! やらせてください! 弁当のために!!」
快適さより、プライドより、食欲と日当。
和希は食い気味に挙手した。
「よろしい」
楓は満足げに頷き、それから和希にとっていちばん重い事実を、さも当然のように告げた。
「じゃあ主催には私から連絡しとく。集合は当日朝四時、本部前ね」
「……は?」
「配置に間に合わなくなるから、遅刻厳禁。前日はコース設営の手伝いもお願いするかもしれないわ」
「……朝四時……?」
挙げた手が、力なく膝へ落ちる。
和希はそのまま椅子からずるずると崩れ落ちた。
弁当につられて引き受けた仕事は、思っていたよりずっと朝が早かった。
こうして、金欠ドライバー和希のオフィシャルデビューが決まった。




