第8話 ZC31S、持病出現
SS4、SS5は大きなミスなく走り切った。残るは最終のSS6だけ。
だが、繰り返し競技車が通った林道は、午前中とはまるで別物になっていた。
先行する四輪駆動ターボ勢が、強大なパワーとブロックタイヤで路面を徹底的に掻きむしった結果、柔らかい土や砂利はすっかり吹き飛んでいる。
あとに残ったのは、深く掘れた巨大な轍と、地球の骨格みたいに硬い岩盤だった。
「右4、ギャップ! 次、左3マイナス、轍深い!」
「しゃああっ!」
楓の鋭い声に応え、和希はステアリングを切り込む。
午前中のタイムロスを取り戻すため、走りはさらにアグレッシブになっていた。深い轍へタイヤを落とし込み、レールの上を走るように曲げていく。
スイフトの腹下を、轍の中央に盛り上がった土や石がガンッ、ゴスッと容赦なく打ち据えた。それでも和希はアクセルを戻さない。
「いいペース! 次、クレスト越えてすぐ右5ロング、70! 踏みちぎれ!」
「おうよッ!」
見えない丘を全開で飛び越える。
着地と同時に右へ向けてステアリングを切り込み、アクセルを床まで踏み抜いた。
――その瞬間だった。
深い轍の底に隠れていた、巨大な岩の出っ張り。
そこへ、フル加速で強烈なトラクションが掛かっていた左フロントタイヤが、ガンッ! とまともに当たった。
――ゴガンッ!!!
ヘルメット越しでもはっきりわかる、車体全体を揺さぶる凄まじい衝撃。
直後、ステアリングががくんと左へ取られ、車を押し出していた力が唐突に消えた。
「うおっ!?」
タコメーターの針が、一気に跳ね上がる。
エンジンは虚しく吹け上がるのに、車は前へ出ない。まるで氷の上に乗ったように駆動が抜け、スイフトは惰性で力なく転がり始めた。
「バーストか!? いや、サス曲げたか!?」
混乱しながらも修正舵を当てる和希。
だが助手席の足元から、何かがフロアを叩くようなガッ、ガッ、ガッという酷い振動が伝わってくる。
「駆動が抜けてる。左の足元から音もする……ドラシャかもしれない。和希、アクセル抜いて!」
「ドラシャ……ドライブシャフトが折れた……?」
口にした途端、その意味が頭へ染み込んでくる。
「嘘だろ……っ、動け! 動けよ!」
もう一度アクセルを踏んでも、振動が激しくなるだけだった。スイフトは速度を失っていく。
残るは、あと一本だったのに。
「和希、止めて! コースアウトしないように、できるだけ路肩へ寄せて!」
楓の声で、和希はアクセルから足を離した。
惰性で動く車をコントロールし、後続車の通る幅を少しでも空けるよう、草むら寄りへ車体を寄せてサイドを引く。
「エンジン切って! ボードと三角表示板は私が出す!」
楓はシートベルトを外し、OK/SOSボードと三角表示板を掴むと、外へ飛び出した。
ひとり残された和希は、イグニッションを切る。
――プスン。
さっきまでの爆音が、嘘みたいに消えた。
開けたドアから、熱気と一緒に夏の森の青臭い匂いが流れ込む。
セミの声。葉の擦れる音。
エンジンが止まった林道は、恐ろしいほど静かだった。
「……クソッ」
和希はステアリングへ拳を叩きつけた。
午後のタイムは悪くなかった。もう少しで最後まで走り切れるはずだった。
「和希、車から離れて! こっち!」
後方に三角表示板を設置し終えた楓が、コース外の退避場所から叫んだ。
和希も慌てて車を降り、周囲を確かめながら楓のもとへ向かう。
二人が無事であることを、後続へ知らせなければならない。
遠くから、次のラリーカーの排気音が近づく。
楓はコース外から見えるよう、緑のOKボードを掲げた。
猛烈なスピードでライバルが駆け抜けていく。
すれ違いざま、相手のコ・ドライバーが短く手を挙げた。
「……はぁ。終わっちまったな」
「ええ。でも、まだここでやることがあるわ。ヘルメットはそのまま。後続にボードを見せるの」
楓の声に、和希は小さく頷いた。
落ち込んでいても、林道の中にいることは変わらない。
「くっそ、虻がめちゃくちゃいる!」
「こら、コースに出ない!」
茂みの中で羽音に追われる和希を、楓が鋭く制する。
二人はヘルメットを被ったまま、熱気と虻に耐え、後続車が来るたびOKボードを掲げ続けた。
爆音が近づいては土煙とともに走り去る。
ただ、ライバルの背中を見送ることしかできない。
それは、リタイアした者にとっていちばん長く、残酷な時間だった。
――――――
数時間後。夕闇の迫るサービスパーク。
表彰式の準備で周囲が賑わうなか、結城工務店のテント前だけが、お通夜みたいな空気に沈んでいた。
JAFの積載車が到着し、荷台から青いスイフトスポーツがワイヤーでずるずると降ろされる。
いわゆる“ドナドナ”である。
稀昭は車が地面へ下ろされるのを待ち、フロントの足まわりを覗き込んだ。
しばらくして、深いため息が漏れる。
「……左のドラシャ、折れてる。アッセン交換だね」
「やっぱりか……」
和希は泥だらけのスーツの袖で、額を拭った。
覚悟はしていた。それでも、言葉にされると改めて堪える。
「予備も考えなきゃ……強化品も調べて……ハブベアリングも確認して……ああっ、面倒くさい!!」
「面倒くさい言うなよ」
気まずそうにそっぽを向く和希の横で、藍華はスマホを構えていた。
「パシャッ。『あとキー、リタイアしてドナドナされるの巻』っと。あ、この写真、夕陽とJAFの積載車でちょっとエモい」
「お前、マジで血も涙もねえな!?」
「だって、崖から落ちて借金数百万よりマシじゃん。帰りにスーパー寄って、ヤケ食い用の肉買お。徳寿でもいいけど」
「……」
言い方はひどい。
だが、誰も怪我をせず、帰って肉を食べられるのも事実だった。
和希は言い返せず、泥だらけのスイフトへ目を戻した。
ドアには結城工務店の筆文字。ボンネットの先では、メロン熊が相変わらず牙を剥いている。
こうして、結城工務店ラリーチームの長くて熱い一日は、最終SSを走り切れないまま終わった。




