第7話 真夏のカレーヌードル
結城工務店とでかでかと書かれたダサいテントの下で、稀昭はパイプ椅子にうずくまり、今にも真っ白な灰になりそうな顔をしていた。
「もうダメだ……タイムが更新されないまま、こんなに時間が……。今ごろ和希と結城さんは谷底でひっくり返って……いや、僕がもっとサスペンションのセットを煮詰めていれば……それともブレーキパッドの摩耗限界を見誤ったのか……?」
「あー、外で食べるカップ麺って、なんであんな美味しいんだろ。家で食べるやつの三倍うまい。クソ暑かったけど」
ぶつぶつと懺悔を続けるメカニックの横で、藍華はシーフードヌードルの空き容器を片付け、冷たいお茶を飲んでいた。
ふと隣の区画へ目をやれば、豪華なチームの巨大テントがそびえ立っている。
業務用のスポットクーラーが涼しい風を吐き出し、ケータリングスペースでは、ドライバーたちが優雅に冷製パスタとアイスカフェラテを楽しんでいた。
圧倒的な格差社会である。
その時だった。
「――ん? まえキー、あれ、あとキーのスイフト」
「えっ!?」
藍華がペットボトルを置いて目を凝らす。
遠くから、聞き慣れたM16Aの排気音が、ゆっくりと近づいてきた。
稀昭が弾かれたように立ち上がり、テントの外へ飛び出す。
薄く土埃を立てながら、一台の青いスイフトスポーツがサービスパークの通路を徐行してきた。
ボンネットは土埃で白く汚れ、右のサイドステップには擦ったような新しい傷。
フロントグリルの隅には、取り残した細かな笹の葉が引っかかっていた。
「か、和希ぃぃぃぃぃぃっ!!」
スイフトが所定の位置へ停まると、稀昭は運転席へ駆け寄った。
「生きてた! 生きて帰ってきたぁぁ! よかった、てっきり崖から落ちて爆発したのかと……!」
「……うるせえ、そこどけ……暑い……死ぬ……」
ガチャリとドアが開き、中から這い出してきた和希は、限界まで茹で上がったタコみたいな顔をしていた。
レーシングスーツは汗でぐっしょりと重くなり、足元はふらついている。
助手席からは、同じく顔を真っ赤にした楓が、大きなため息とともにバインダーを手に降りてきた。
「無事よ。SS3でタイムは落としたけど、ちゃんとフィニッシュしてる。速報に出なかった理由までは分からないわ」
「タイムロスって……あのフロントに残ってる笹の葉は何!?」
「オーバースピードで笹藪に突っ込んだのよ。走った感じでは足まわりに異常はなかったけど、グリルに笹が詰まって水温が跳ね上がったわ」
楓の報告に、稀昭の顔色が変わる。
「水温、何度までいきました!?」
「115度。ヒーターをMAXにして、ペースを落として走ったわ」
「ヒーターMAX!? この真夏に、レーシングスーツ着たまま!?」
稀昭が絶句して和希を見下ろす。
当の和希は、パイプ椅子へ崩れ落ち、虚ろな目で宙を見ていた。
「……俺は……林道の中で焼肉になるかと思った……。真正面から熱風が来るんだぞ。逃げ場ねぇんだぞ……」
「エンジン載せ替えよりマシでしょ。ほら、水分摂りなさい」
楓がクーラーボックスから冷えたスポーツドリンクを取り出し、和希へ渡す。
和希はそれを受け取るなり蓋を開け、喉へ流し込んだ。
「ぷはぁっ! ……生き返ったぁぁ! おのれ緑の怪物め、次は絶対ぶっちぎってやる!」
スポーツドリンク一本で無駄に闘志を取り戻す単細胞ドライバー。
楓も冷たい飲み物を口にし、バインダーへ目を落とした。
休んでいる暇はない。ここから次のステージへ向かうまでのサービス時間は、厳格に決まっている。
「現在時刻、12時45分! TCアウトまで残り40分よ! 稀昭くん、急いで!」
「はいっ!!」
楓の鋭い声で、稀昭の目が一瞬でメカニックのそれに変わった。
先ほどまでの取り乱しようが嘘のように、車の周囲を確かめ、用意していた板の上へガレージジャッキを据える。
車体を持ち上げ、ウマを掛ける。安定していることを確かめると、稀昭はタイヤへ目を走らせた。
「結城さん、午後ループの路面状況は!?」
「SS4、SS5はコーナーごとに土が出てる。最終のSS6は浮き砂利が掃けて、硬い岩盤と深い轍が露出してくるはず。フロントのトラクションが生命線になるわ」
「了解! 和希、グラベルでブロックが飛んでるから、溝の残ってる後輪を前へローテーションして!」
「おう!」
和希が電動インパクトレンチを握り、ホイールナットを外していく。
そのあいだに稀昭は段ボールを敷いた地面へ寝転がり、車の下へ潜り込んだ。
下まわりのボルトの緩み。
ドライブシャフトブーツの破れ。
サスペンションのオイル漏れ。
笹藪に突っ込んだ痕跡として、分厚いアルミのアンダーガードには生々しい擦り傷が刻まれていたが、致命傷はない。
「アンダーガードのボルト増し締めよし! 足まわりのガタなし! ブレーキラインの損傷、フルード漏れなし!」
稀昭は車の下から這い出し、エンジンルームへ回り込んだ。
ラジエーターのフィンに残った細かな笹をピンセットで取り除き、葉や埃をエアで吹き飛ばしていく。
その横では、楓がフロントガラスにこびりついた泥を拭き落としていた。
藍華は作業の進み具合を窺いながら、沸かしておいた湯をカップへ注ぐ。
「よし、冷却水減ってない! オイル量も問題なし! 大きな損傷は見当たらないよ。和希の悪運の強さだけはワークス級だ!」
「褒めてんのかそれ!?」
「褒めてるよ! タイヤ、付いた?」
「おう、こっちは終わった」
「じゃあ下ろすよ。離れてて」
稀昭はジャッキで車体をわずかに上げ、ウマを外した。
バルブを緩めると、スイフトは静かに地面へ戻る。
最後にトルクレンチを手に取り、ホイールナットを一本ずつ規定トルクで締めていった。
カチッ。カチッ。
命を預ける足まわりの、最終確認。
すべてを終えた時、TCアウトまで残り十五分になっていた。
「ふう……よし。和希、お昼食べる時間くらいはあるよ」
額の汗を手の甲で拭いながら稀昭が言うと、藍華が「はい、これ」と、出来たてのカレーヌードルを差し出した。
「おっ、サンキュ……って、あっちぃぃぃ!!」
一口すすった和希が絶叫する。
「ばかっ、俺はさっきまで車内で煮込まれてたんだぞ! なんでこの炎天下で熱々のカレーヌードル食わなきゃなんねえんだよ!!」
「カップラーメン作れって言ったの、あとキーじゃん!」
和希は口を開きかけ、そのまま閉じた。
否定できない。確かに言った。
「文句言わないの。うちには隣みたいなエスプレッソマシンも冷製パスタもないの。塩分とカロリーを摂れるだけありがたいと思いなさい」
「ちくしょう、隣の社長チームめ……! いつか絶対、あのケータリングテントごと奪ってやる……!」
滝のような汗をかき、麺を何度も吹き冷ましながら、和希はカレーヌードルを三分で胃へ流し込んだ。
飯は熱々のカップ麺。隣の冷製パスタには、どうしたって見劣りする。
それでも、車の点検は済んだ。腹も満ちた。
次のステージへ向かう準備は、整っていた。
「窓も拭いた。時間よ、行くわよ」
楓が時計を示し、出走を促す。
和希は空の容器を置いて立ち上がり、目つきをまた勝負師のそれへ戻した。
「行ってくる。次は絶対タイム残すからな」
「気をつけてね! 絶対に車壊さないでよ、僕の精神のために!」
「あとキー、カレーこぼしたのスーツについてるよ」
「へ!? うわ、マジか!」
稀昭の悲痛な叫びと、藍華の気の抜けた声に見送られながら。
青いスイフトスポーツは午後のループへ向けて、力強い排気音とともにサービスパークを後にした。




