第6話 笹藪クリティカル
サービスパークで稀昭が、空白のタイム欄を睨む少し前。
SS3の林道最深部で、和希と楓は笹の壁へ迫っていた。
「右5、50! 次、左3マイナス、タイト!」
楓の鋭い声がインカム越しに飛ぶ。
荒れたグラベルを突き進む青いスイフトスポーツの車内は、すでに尋常じゃない熱気に包まれていた。
SS1、SS2は順調に走り切った。
だが、ここSS3はまるで別物だ。道幅は極端に狭く、両脇には大人の背丈ほどもある鬱蒼とした笹藪が、壁みたいに迫っている。
路面には前走車たちが掻き出したソフトボール大の石がごろごろ転がり、タイヤのグリップを容赦なく奪っていた。
「くそっ、フロントが逃げる!」
和希は左足ブレーキでノーズをインへ向けようとする。
だが、浮き砂利の上を滑るフロントは、思うように向きを変えなかった。
「ギャップ! ブレーキ残して!」
「止まんねえッ!」
下り勾配からの左3マイナス。
想定よりオーバースピードで進入したスイフトは、ステアリングを切っても曲がらず、そのままアウト側へ一直線に押し出された。
視界の先にあるのは、分厚い緑の壁。
「ヤバい!」
反射的に和希が目を細めた瞬間、
ズバババババッ!!
という轟音とともに、車体前面が深く生い茂る笹藪へ突っ込んだ。
無数の笹がフロントガラスを激しく叩き、青臭い匂いが車内へ一気に流れ込む。
衝撃で車体は大きく沈み込んだが、幸い、木や岩への直撃という最悪の事態だけは免れた。
「楓、無事か!?」
「問題ない。エンジン生きてる、すぐバックして!」
楓の声で、和希は我に返る。
リバースへ入れ、アクセルを踏む。タイヤが泥と潰れた笹を掻きむしり、車体はずるずると後退を始めた。
楓が後方を確かめ、和希はなんとか車をコース上へ引き戻す。
フロントガラスに張り付いた笹の葉を、ワイパーで強引に払った。
「コース復帰! タイムロス約30秒! 次、すぐ右4! 後ろ、来てるかも!」
「了解ッ! 取り返すぞ!」
アドレナリンのまま和希は1速へ入れ、勢いよくアクセルを踏み込む。
足まわりに異音はない。ステアリングセンターも狂っていない。少なくとも、走る感触に大きな変化はなかった。
だが、トラブルは音もなく進行していた。
笹藪への突進から数キロ後。
楓の読み上げる声の裏で、和希はふと追加メーターへ目をやった。
「……嘘だろ」
水温計の針が、異様な速さで右へ傾いている。
普段は100度前後で安定しているはずが、110、115と上がっていく。
針はじわじわと、越えてはならないレッドゾーンへ近づいていた。
「楓、ヤバい! 水温が跳ね上がってる!!」
和希の顔色が変わる。
クーラント漏れか。ラジエーター破損か。
このまま上がり続ければ、M16Aは終わる。
「止めるか!? ここでエンジン切るか!?」
「待って」
楓は追加メーターへ目を走らせた。
「……さっきの笹藪。グリルに詰まって、風が当たってないのかもしれない」
「じゃあどうすんだよ! このまま全開で走ったらブローするぞ!」
「ペース落として。ヒーター使うわよ」
言うが早いか、楓はヒーターのダイヤルをHOTへ回し、風量をMAXにした。
次の瞬間。
ブォォォォン!!
というファンの唸りとともに、正面の吹き出し口から熱風が和希へ襲いかかった。
「あっつぅぅぅぅぅぅ!? 何してんだお前ェェェッ!?」
「ヒーターコアをサブラジエーター代わりに使うのよ! クーラントの熱を車内に逃がしてる!」
「死ぬ! 俺が先にオーバーヒートする!!」
「文句言わない! エンジン載せ替えと、ここで茹でダコになるの、どっちがいいの!」
「茹でダコ!!」
叫びながらも、和希はアクセルを緩めた。
さっきまでの勢いを抑え、水温計へ短く目をやる。
エンジンを救うために、人間の快適さを捨てる。
理屈は分かる。分かるが、暑いものは暑い。
和希の顔から滝みたいに汗が噴き出し、グローブの中までぐっしょり濡れる。呼吸するたび、肺まで熱風を流し込まれるようだった。
「楓、後ろから来てる!」
「どこかでパスさせる! あそこのジャンクション!」
ルームミラーに後続車が迫る。
楓の指示で和希は広い場所へ退避し、猛烈な砂埃を上げて追い抜いていく後続車を見送った。
「行くわよ、和希。次、右3! ロング!」
「ふぐぅぅぅ……ッ! 了解ッ!」
再びコースへ復帰。
涙目で、汗まみれで、それでも和希はステアリングを握り続ける。
ペースを落とし、ヒーターを全開にしたことで、水温計の針はレッドゾーン手前にかろうじて踏みとどまっていた。
和希はその位置を確かめながら、次のコーナーへ車を運ぶ。
隣の楓も無傷ではない。
額からは大粒の汗が流れ、スーツの色が変わるほど濡れていた。
ノートを押さえる手の甲で顎の汗を拭い、息を継いで次を読む。
「……残り500メートル! 踏ん張れ!」
「うおおおおおぉぉぉぉぉッ!!」
雄叫びとともに最後のストレートを駆け抜け、スイフトスポーツはフライングフィニッシュを突破した。
――SS3、なんとか完走。
STOPのテントでタイムカード処理を受け、解除標識を過ぎた先の広い路肩へ、和希は車を止めた。
シートベルトを乱暴に外し、ドアを蹴るように開けて車外へ転がり出る。
「はぁっ、はぁっ……っ、死ぬ、死ぬかと思った……! 道民にこの暑さは死を意味する!」
ヘルメットを脱ぎ、生ぬるい外気を涼しいと感じるほど茹で上がった和希。
同じく汗だくで降りた楓は、フロントを見て大きくため息をついた。
「……和希、見なさいこれ」
回り込んだ先には、異様な光景があった。
グリルいっぱいに笹の葉と茎がぎちぎちに詰まり、その上へ突き出した葉が、ボンネット先端のメロン熊に緑のヒゲを生やしていた。
「こりゃあ……風、当たらねえわ……」
「原因が分かったなら、さっさと引き抜く。次はサービスよ。窓全開で人間を冷やしながら帰るわ」
「……はい」
二人で絡みついた笹を引き抜き、グリルの隙間を塞ぐ葉を取り除いていく。
引っ張るたびに潰れた茎がちぎれ、青臭い匂いが立ち上った。足元には、笹の葉と茎が山になっていった。
ようやくグリルの奥が見えるようになり、和希は腰を伸ばして息を吐く。
メロン熊も、どうにか元の顔に戻っていた。
タイムは大きく失った。
それでも、車は生きている。二人も生きている。
しぶとさだけを武器に生き延びたプライベーターたちは、泥と汗にまみれたまま、サービスパークへ向けて走り出した。




