第5話 林道に響くM16A
深い森へ続く一本道。
先ほどまで一般車と同じように信号待ちをし、制限速度を守ってリエゾンを走っていた青いスイフトスポーツは、林道の入口に設けられたTCの黄色い予告看板手前で静かに停車していた。
エアコンを外したスイフトの車内は、窓を閉め切るとたちまちサウナになった。
周囲に並ぶ競技車の排気の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
「……現在時刻、10時12分。私たちの指定タイムは14分ちょうど。TC予告で1分待機よ」
「了解。水、一口もらうわ」
ヘルメット越しに響く楓の声に、和希はペットボトルを開け、生ぬるいスポーツドリンクを喉へ流し込んだ。
周囲には、出走を待つラリーカーが列をなし、重低音のアイドリングを響かせている。どの車からも、ただならぬ緊張が漂っていた。
「13分。時間よ。進めて」
車内の時計が切り替わった瞬間、楓の指示で車をゆっくり前進させる。
そのまま赤いTC看板と、オフィシャルの待つテントへ横付けした。
楓は窓を開け、タイムカードを手に時計を見つめる。
「……14分。はい、お願いします」
差し出されたカードに時刻を記入し、オフィシャルは笑顔で返してきた。
「はい、OKです。スタート予定時刻は10時17分。いってらっしゃい、ご安全に!」
「ありがとうございます」
窓を閉め、車はさらに数十メートル先へ進む。
木々が真夏の強い日差しを遮り、薄暗い林道の入口には競技車の排気音が響いていた。
いよいよ競技区間――SS1のスタート地点だ。
楓がタイムカードを渡すと、スタート担当のオフィシャルが時刻を確認した。
「スタート時刻は10時17分です」
「ありがとうございます。……和希、いいわね?」
「ああ。ばっちりだ」
楓は返されたタイムカードをクリップボードに挟み、グローブボックスのポケットへ収めると、隣を見た。
和希はステアリングとサイドブレーキを握り締め、待ちきれない顔で前方を睨んでいる。
目の前には、デジタル時計と連動したスタートシグナル。
表示される時刻が、一秒ずつ進んでいく。
「……30秒前」
楓の声が一段低くなる。
ヘルメットと防炎マスクで顔を覆い、6点式ベルトでバケットに縛られた和希からは、普段のお調子者の気配が消えていた。
視線はシグナルに据えたまま動かない。
クラッチを踏み込み、右足で細かくアクセルを煽る。
M16Aの回転を、スタートに最適な帯域へ保つ。
ウォォン、ウォォン、と唸るエンジンに合わせて、車体全体が武者震いみたいに小さく震えた。
「15秒前。……10秒」
赤いランプが、カウントダウンに合わせて一つ、また一つと点灯していく。
森に響くエンジン音。和希は短く息を吐いた。
「5、4、3、2、1、スタート!」
すべての赤が消え、緑が点いた瞬間。
和希はサイドブレーキを下ろしてクラッチをつなぎ、スイフトスポーツは後方へ砂利を猛烈に撒き散らしながら、弾かれたように林道へ飛び出した。
「右4、クレスト、すぐ左3マイナス!」
「おうッ!」
分厚いアルミ製のアンダーガードへ、グラベルタイヤが巻き上げた小石が容赦なく叩きつけられる。
荒れた路面に足を取られ、車体が激しく跳ねるたび、内臓まで揺さぶられるような衝撃が響いた。
「次、インカット右2、50!」
「しゃああっ!」
視界の開けない鬱蒼とした森の中。
和希は左足で鋭くブレーキを入れ、フロントへ荷重を移してリアを流す。
車は砂埃を巻き上げながら向きを変え、コーナーの出口へ飛び込んでいく。
窓の外では、太い樹木の幹が恐ろしい勢いで真横を飛び去った。
一歩間違えれば大クラッシュ。その速度域だ。
「コーション! ギャップ! キープアウト、すぐ右2!」
「ッ!!」
楓の警告を受け、和希が進路を外側へ寄せる。
直後、巨大なうねりへ乗り上げたスイフトが、ふわりと宙に浮いた。
ズドォン!
凄まじい着地音とともに、ステアリングが跳ねる。和希は素早く修正を当て、次の右へ車を向けた。
着地の衝撃で楓のノートも跳ねていた。
押さえ直し、次の行へ目を走らせる。声は途切れない。
和希が車の向きを変える、その先へ、次の情報を送り込んでいく。
声に応えてアクセルが踏み込まれ、M16Aが高く吠えた。
二人を乗せた青いスイフトは、もうもうと土煙を残し、林道の奥へ消えていった。
――――――
その四十分後。灼熱の砂利広場。
出走していく何十台ものラリーカーを見送ったあとのサービスパークは、先ほどまでの咆哮が嘘みたいに静まり返っていた。
時折、遠くの山からかすかな排気音が風に乗って聞こえてくるだけだ。
「……で? 私たちこれ、何時間待つの?」
「……順調にいって、あと2時間くらいかな」
「ヒマすぎない!?」
『結城工務店』のロゴが踊るテントの下で、藍華はパイプ椅子にだらんと座り込んでいた。
だが、隣の稀昭は暇どころではない。
落ち着かない足取りでテントの中を行ったり来たりし、工具箱を意味もなく何度も確認しながら、スマホの画面を睨んでいる。
開かれているのは、公式サイトのリザルト速報だ。
稀昭は震える親指で、何度も画面を更新していた。
「おかしい……遅すぎる。SS1とSS2は無事に出てた。でももうSS3のゴールを過ぎてるはずなのに……なんで和希のタイムだけ出ないんだ!」
「あとキーのだけ? 他の人もじゃないの?」
藍華は欠伸をしながら適当に返す。
稀昭はもう一度画面を確かめた。前後に出走した車のタイムは、もう表示されている。和希たちの欄だけが空白だった。
「まさかコースアウト!? 崖から落ちた!? それともドラシャが折れた!?」
「知らないし」
稀昭は頭を抱え、テントの支柱にもたれかかった。
「いや、またオイルが漏れたのか!? 組み直したミッションに何か……ブレーキのエア抜きにミスが……僕の整備に不備が……っ!」
「大丈夫だって。ただ溝に落ちて亀になってるだけでしょ」
「……それリタイアじゃん!!」
見えない林道での戦いに、稀昭だけが勝手に胃を痛めている。
車が大破すれば、和希にとっては修理代も深刻だ。だが、それ以前に二人は無事なのか。
メカニックとしての責任感と、幼馴染を案じる気持ちがごちゃまぜになって、稀昭は落ち着いていられなかった。
「あーあ、電波のせいで更新遅れてるだけだって。そんなことより……」
その横で藍華は、どうせ暇だしお腹も空いた、とばかりにヤカンへ水を入れ、カセットコンロに火をつけた。
シュコー……という音を確かめると、持参したシーフードヌードルの蓋を開け、お湯が沸くのをのんびり待ち始める。
「藍華……なんでそんなに落ち着いてられるの……」
「だって、あとキーだよ? しぶといだけが取り柄のあとキーが、そう簡単に終わるわけないじゃん」
妙に説得力のある妹の言葉に、稀昭はぐうの音も出なかった。
本番の戦いは、林道の中だけじゃない。
車外のサービスパークでも、それぞれの形でじりじりと続いていた。




