第4話 隣の優雅なエスプレッソ
和希と楓がレッキへ出たあとの、灼熱の砂利広場。
結城工務店とでかでかと書かれたテントの下では、早々に二つの悲鳴が上がっていた。
「火が! ちょっと風吹いただけでカセットコンロの火が消えるんだけど! なんで私が体張って風除けになんなきゃなんないの! これじゃ一生お湯沸かない!」
「……ジャッキが動かない。車輪が砂利に埋まってる……」
コンロの風上にしゃがみ込んで格闘する藍華の横で、稀昭はジャッキのハンドルを引いていた。
ようやく所定の位置へ運び、持参した板を敷いて据え直す。
「……これ、工具を並べるだけでもひと仕事だよ」
額を拭った、その時だった。
隣の区画へ巨大な影が落ちた。
重低音を響かせて横付けされたのは、磨き上げられた大きな輸送トラック。
中からお揃いのスタイリッシュなチームウェアを着たメカニックたちが次々に降りてくると、あっという間に大型テントを張り、足元には平らで頑丈な樹脂マットを敷き詰めていく。
さらに業務用のスポットクーラーが唸りを上げ、ケータリングテントでは専属スタッフが本格的なエスプレッソマシンでコーヒーを淹れ始めた。芳醇な香りが、風に乗って結城工務店のテントにも流れてくる。
「……ねえ、まえキー。あっち、エアコンあるし冷蔵庫あるし、エスプレッソの匂いするよ」
「……見るな、藍華。僕たちのテントは『株式会社 結城工務店』だ。ここでは耐え忍ぶしかない」
圧倒的な資金力の差を前に、兄妹は自分たちの凹んだヤカンとパイプ椅子へ目を落とし、そろって肩を落とした。
――――――
数時間後。
何十キロにも及ぶレッキを終え、和希と楓はサービスパークへ戻ってきた。
何百というコーナーの形状や路面状況を言葉にし続け、和希の脳はショート寸前だった。
楓に口へ突っ込まれたレモン飴を虚ろな目で舐める横で、楓は首筋の汗をタオルで拭いながら、ペースノートを確認している。
だが、息をつく暇はない。
二人はそのまま、公式車検――車両検査の準備に入った。
「タイヤ、このままでいいか?」
「舗装は多かったけど、走っててどう? グリップ、落ちてきてる?」
「未舗装に入るとちょっと心許ない。トラクションが逃げる感じはある。……でも、もらった新品もできるだけ温存したいんだよな。次も六本もらえるわけじゃねぇし」
「そう。ならこのままね。空気圧、見ちゃうわ」
楓は車検証と自賠責保険の証書が入ったクリアファイルをワイパーへ挟み、トランクの小物入れからエアゲージを取り出す。
和希はボンネットを開けてフレームナンバーのカバーを外し、技術オフィシャルである車検員を待った。
周囲を見渡せば、どのチームも車検に向けて張りつめた空気を漂わせている。
やがて、クリップボードを手にした車検員たちがこちらへ歩いてきた。
ここを通過できなければ、どれだけ速くてもスタートラインには立てない。
「準備いいですか?」
「はい、お願いします」
楓がワイパーからクリアファイルを取り、差し出す。
「車検証と自賠責保険の証書です」
車検員は書類へ目を通し、車体に刻まれた番号を照合した。続けてバッテリーの固定を確かめ、バインダーへチェックを入れていく。
「はい、書類確認しました。フレームナンバー問題なし。バッテリー固定も問題なし。ボンネット閉めていいですよ。では、車両と装備品の検査に入ります」
「はい」
ここからは、ラリー特有の厳格なチェックが続く。
「レーシングスーツのホモロゲーション、ヘルメット期限、シートベルトのホモロゲーション、グローブ、HANS……問題ありませんね」
「OK/SOS確認。消火器の期限よし。発煙筒、救急バッグ、搭載よし。ジャッキ固定よし……トランクを開けてください」
楓がリアゲートを開けると、車検員は積載されたスペアタイヤを両手でがっちり掴み、力強く揺すった。
ジャンプの衝撃でも外れないよう、確実に固定されているかを見るためだ。
「スペアタイヤ固定よし。続いてライト周り、いきます」
車検員が二手に分かれ、フロントとリアへ回る。
和希が運転席へ乗り込むと、フロント側に立った車検員が矢継ぎ早に指示を出した。
「ライト、遠目。ウィンカー右、左。ハザード、ワイパー、クラクション」
「プッ!」
和希の操作に合わせて、フロントの車検員が点灯と動作を確認する。
「はい、次、ブレーキ踏んでください。……後ろは?」
「……右のブレーキランプ、点いてませんね」
「えっ!? 嘘だろ、稀昭、さっきまでバッチリだって……!」
整備不良で車検落ち。
その最悪の想像と、このラリーへ注ぎ込んだ出費が一瞬で脳内を駆け巡り、和希は運転席で青ざめた。
その次の瞬間。
車の後方にいた楓が、右のテールランプユニットを手のひらでドンッとひとつ叩いた。
「点いたわよ」
「……OKです」
チカッと息を吹き返したランプを見て、リアの車検員が少し引きつった声で頷く。
ただの接触不良だったらしい。和希は寿命が三年縮んだ気分になった。
「では最後に、外観のチェックを……」
リアの車検員がリヤハッチへ視線を向けたところで、ぴたりと動きを止めた。
その視線の先にあるのは、スズキマークの上へ鎮座し、牙を剥いて不敵に笑う『夕張のメロン熊』だ。
(やばっ……ステッカーの規定とかあったか!? それともメロン熊がアウトか!?)
再び冷や汗が噴き出す和希。
車検員はメロン熊と手元の書類を見比べたまま、しばらく無言だった。
そして、真顔のまま口を開く。
「……実は自分、夕張出身でして。メロン熊がいると思わず」
「あー……すみません、俺、札幌で……」
「え? じゃあ、なんでメロン熊?」
「知らないうちに貼られてました」
「そうなんだ。……はい、出身偽り、不合格」
「ええええ!?」
「はは。嘘です。合格」
真顔の冗談に和希が盛大にずっこける横で、フロントの車検員が油性マーカーを取り出し、右ドアのゼッケン隅へ力強く『OK』と書き込んだ。
車検員たちを見送ると、稀昭はまた隣の豪華なテントへ目を向けていた。
「稀昭、右のブレーキランプ、一回点かなかった。スタート前に見といてくれ」
「わかった。今確認する」
稀昭は工具箱から必要な工具を取り出し、スイフトの後ろへ回った。
それでも、隣から漂うコーヒーの香りが気になるらしい。作業へ取りかかりながら、和希へ尋ねる。
「……ねえ和希。あっちの隣のチームって、何者なの?」
「ああ、あれな」
和希は自分たちの筆文字の目立つテントと、隣の最新鋭設備を見比べながら、ぶっきらぼうに答える。
「あれはTGRラリーチャレンジのチーム。ドライバーは、たしかどっかの会社の社長だったはずだ。……まあ、俺も詳しいわけじゃないけど」
「社長かぁ……」
「お前だって社長だろ」
「自転車操業すぎて、社長の実感なんてないよ」
稀昭はため息をつき、手元の作業へ視線を戻した。
その横で、バインダーを片付けていた楓が言い放つ。
「資金力は成功への近道ね」
「……身も蓋もねぇな!」
和希が反射でツッコむ。
だが、優雅にエスプレッソを飲む社長らしき人物と、自分たちの足元のぼこぼこの砂利を見比べると、ぐうの音も出なかった。
資金力は底辺。
テントはダサく、メカニックもケータリング係もすでに疲弊している。
それでも、青いスイフトのゼッケンには、合格を示す『OK』が書き込まれた。
ラリー本番のスタート地点は、もうすぐそこだった。




