第3話 工事現場の休憩所
どこまでも続く青空の下、真夏の太陽が容赦なく照りつけていた。まだ早朝だというのに、もう汗が止まらない。
山奥に切り拓かれた広い砂利の広場――ラリーの拠点となるサービスパークの一角で、和希は額の汗を腕で拭い、満足げに腰へ手を当てる。
「よっしゃぁ! 陣地、設営完了!」
その視線の先には、規定どおりに敷いた真っ青なエコロジーシート。
中央には、一週間前に完璧なステッカーチューンを施された青いスイフトスポーツが鎮座していた。
すでにレッキ受付も終わり、ゼッケンは両サイドに、左後席の内窓には『JAF公認ラリー競技会之証』が貼られている。
そして、その上に大きな日陰を作っているのが、白地に黒の極太筆文字で『株式会社 結城工務店』と大書きされた巨大なイベント用テントだった。
「……本当に、ただの工事現場の休憩所にしか見えないわね」
「うるせぇな! この炎天下だぞ。日陰があるだけありがたいと思え!」
楓の呟きに和希が胸を張って言い返す。
その傍らで、稀昭はすでにこの過酷な環境にげんなりしていた。
「日陰はありがたいけど、足元がボコボコの砂利で最悪だよ。ツールキャビネットのキャスターは転がらないし、少し動いただけで土埃が舞って工具が汚れるし……」
清潔で平らな自分の工場を思い出したのか、稀昭が深いため息をつく。
そこへ、首にタオルを巻き、麦わら帽子をかぶった藍華が、ゾンビみたいにふらふら歩いてきた。
「……暑い……死ぬ……エアコン……」
「ほら、言わんこっちゃない。絶対来たいって言ったの、藍華でしょ」
「うっさい! ……で、私のキッチンはどこ?」
虚ろな目の藍華へ、和希はテントの隅をびしっと指差した。
「あそこだ!」
そこにあるのは、少し脚の錆びた折り畳み長机とパイプ椅子が一脚。
机の上には、ホームセンターで買った安いクーラーボックス、カセットコンロ、そして年季の入った凹みヤカンが並んでいる。
「……キッチンどこ?」
藍華は目をこすった。
工場で見せられた機材が、場所を変えたところで立派になるはずもない。それでも、もう少し何かあると思っていたらしい。
「はいはい、無駄口叩いてないで動く」
楓がクリップボードへ目を落とし、三人に声をかけた。
首にはネッククーラー。汗で頬に張りついた髪を払う仕草まで、どこか現場監督じみている。
「和希、レッキに行くわよ。準備はできてる?」
「おう! バッチリだ!」
レッキ――本番前に実際のコースを走り、カーブのきつさや路面の状態をペースノートへ落とし込む事前確認。
その精度ひとつで、本番のタイムは大きく変わる。
「稀昭くんと藍華ちゃんは、私たちがレッキに行ってるあいだ、テントの脚の重しをもう一度確認しておいて。山の天気は変わりやすいから、突風で飛んだら目も当てられないわ。おじいちゃんから借りてる大事な備品なんだから、絶対壊さないでね」
「了解。……藍華、とりあえず冷たいお茶を飲んでからやろうか」
「うん……」
稀昭はクーラーボックスを開け、取り出したペットボトルを妹へ渡した。
藍華はそれを両手で頬に押し当て、ようやく生き返ったように息をつく。
「よし、行くぞ楓!」
「ええ。ビシバシいくから覚悟しなさい」
和希が運転席へ乗り込む。
助手席のバケットに滑り込んだ楓は、重たい仕事鞄を開き、使い込んだ道具を次々と取り出し始めた。
「……なぁ、楓。それ、毎回思うけど、全部使うのか?」
和希が呆れたように見る先で、楓は膝の上へノートを広げる。
スマホにはラリーコンピュータアプリ。受付で配られたばかりのロードブック。これから書き込んでいくペースノート。
さらに、用途ごとに分けられた筆記具がきっちり揃っていた。水に強いボールペン、製図用シャープペンシル、赤と黄の蛍光ペン。どれも予備まである。
「当たり前でしょ。読み間違えても書き間違えても、危ないのは私たち二人なのよ。一本折れたとか、インクが切れたとか、そんなことで慌てていられないわ」
楓はロードブックの必要なページへ、色分けした付箋を手早く貼っていく。
「いい? レッキは本番のための台本作りなの。あんたの感覚を、走りながら聞いても分かる言葉にして残す。そのための道具よ」
「わーってるよ……。そんな怖い顔すんなって。メロン熊も見守ってくれてるだろ?」
「いつからメロン熊が守り神になったのよ」
楓は最後に、小さな金属ケースを取り出した。
中にはブドウ糖タブレットと、和希の好物のレモン飴がぎっしり詰まっている。
「……それは?」
「あんたが脳みそ使いすぎてオーバーヒートした時の冷却材よ。レッキ中に『腹減った』とか『疲れた』とか言い出したら、これを口に突っ込んで黙らせる」
「お前も俺にエサやりする気かよ!」
和希が叫ぶと、テントの隅でヤカンと格闘していた藍華が「なんか言った!?」と顔を上げた。
「なんでもねーよ! ほら、行くぞ!」
楓が筆記具とケースを手の届く場所へ収めたのを確かめ、和希はイグニッションキーを回した。
M16Aが目を覚まし、低い排気音がテントの下に響く。
ドアを閉めた楓が、開いたサイドウィンドウから顔を出した。
「稀昭くん、藍華ちゃん! 私たちが戻るまでに、一度お湯を沸かして、何分かかるか測っておいて。ここで使ってみて、風の影響も確認しておきたいから!」
「そんなのまで測るの!?」
「戻ってから、まだ沸いてませんじゃ困るでしょ。頼んだわよ!」
藍華がヤカンを持ったまま、がっくりと肩を落とす。
その横で、稀昭はポケットからスマホを取り出していた。
「まえキー、何してんの」
「ストップウォッチ」
「やる気じゃん!」
和希は吹き出し、シフトを1速へ入れた。
「じゃ、留守番頼むぞ!」
スイフトスポーツは砂利を踏みしめ、ゆっくりとテントを離れる。
ドアには激渋の社名。ボンネットの先端とリヤハッチには、夕張のメロン熊。
ミラーの中で、工務店のテントが小さくなっていく。その下では、麦わら帽子の藍華と稀昭が、まだヤカンを挟んで何か言い合っていた。
「次の分岐、右ね」
「了解」
楓の声に応え、和希は前へ向き直った。
まずはレッキだ。このあと、この車で踏み込むためのノートを作りに行く。




