第8話 師弟誕生
火曜日。結城工務店の昼休み。
和希はデスクで一番安いコッペパンを齧りながら、ご機嫌な鼻歌を歌っていた。
昨日のテストランの完璧なフィーリングが、まだ身体に残っている。
あとは週末にタイヤや機材を積み込めば、来月のラリーへの準備は万端。参加申込書を書いて送ればいいだけだ。
ピロン、とスマホが鳴った。
稀昭からのメッセージに、PDFファイルが一つ添付されている。
『和希、昨日はゆっくり休めた? ミッションオーバーホール他諸々の請求書、送っとくね。月内に振込よろしく』
「おうおう、きっちり払ってやるよ。俺には休日出勤手当があるからな……って、は?」
PDFを開いた和希の目が、限界まで見開かれる。
部品代の一覧の下に、見慣れない項目が増えていた。
『深夜特急作業割増 ¥20,000』
『精神的苦痛慰謝料(結城さんからのプレッシャー対応) ¥30,000』
一番下の合計金額は、和希が頭の中でざっくり計算していた予算を、容赦なく突き抜けていた。
「……っっなあああああ!? 何これ!? 精神的苦痛って何だよ!」
「あれだけ急かして、夜中まで作業してもらったんでしょ。特急料金くらい覚悟しなさいよ」
絶叫する和希の背後から、呆れきった声が降ってくる。
振り返ると、マグカップを片手にした楓が、悪魔みたいに美しい笑みを浮かべて立っていた。
「楓! お前、稀昭になんて吹き込んだんだよ!」
「事実を言っただけよ。和希が毎日うるさく催促してくるせいで、こっちまで胃が痛かったんだから。だから、きっちり特急料金を取りなさいってアドバイスしてあげたの」
「鬼! 悪魔!」
「誰が悪魔よ。あんまり言うと、おじいちゃんに言いつける」
「くっ、社長を出すなっ。……ってか、お前、仕事は?」
「仕事中よ。おじいちゃんからWEBの相談受けてるの」
もう一度請求書を見ると、慰謝料の欄にだけ、小さく『冗談です』と添えてあった。
深夜特急作業割増の二万円は、しっかり合計に入っている。
和希は言い返すのをやめ、硬いコッペパンを黙って口に放り込んだ。
――――――
その週末。
和希は死んだ魚みたいな目をしながら、稀昭の工場でスイフトのラゲッジスペースへスペアタイヤや工具箱を積み込んでいた。
傍らでは、レザージャケット姿の楓が、クリップボード片手にチェックリストを読み上げている。
「次、油圧ジャッキ。ウマ二脚。それと予備のブレーキパッド」
「へいへい……」
重いジャッキを持ち上げ、悲鳴を上げる腰を誤魔化しながら車内へ押し込む。
そこへ、コンビニのレジ袋を提げた藍華がシャッターをくぐって入ってきた。
「まえキー、腹減ったー。昼メシ……って、あれ?」
作業台に向かっていた稀昭が顔を上げる。
藍華はその脇に袋を置くと、和希の隣に立つ楓をまじまじと見つめた。
油まみれの男ばかりの工場には似つかわしくない、洗練された美女。
藍華は目を瞬かせ、和希のツナギの裾を引っ張った。
「ねえ、あとキー。誰、あの綺麗な人。彼女?」
「馬鹿言え。コ・ドラ兼、俺の財布の管理者兼、鬼軍曹だ」
「えっ」
「あ、そうだ楓。こいつ、稀昭の妹の藍華。この前、ラリーに興味があるとかふざけたこと抜かしてたんだよ」
和希のその一言で、クリップボードへペンを走らせていた楓の手がぴたりと止まる。
ゆっくり振り返ったその目が、獲物を見つけた鷹みたいに鋭く光った。
「……へえ。あなたが藍華ちゃん。はじめまして、結城楓よ。ラリーに興味があるの?」
「あ、えと……ちょっとだけ」
「ドライバー? コ・ドライバー?」
「まだよくわかんない。免許もないし」
普段なら遠慮なく言い返す藍華が、珍しく言葉を選んでいる。
楓は藍華の前まで歩み寄り、口元を緩めた。
「そう。じゃあ、私はコ・ドラだから、コ・ドライバー志望向けに一つだけ忠告するわ。こんな男をドライバーにしたら地獄よ」
「えっ?」
「単細胞なドライバーの管理が一番大変なの。ペースを落とさせないよう先を読んで、TCに時間通り入れるよう分刻みで管理して、メンタルが落ちれば持ち上げて、調子に乗れば手綱を引く。ついでに、この貧乏くさいやり繰りまで手伝わされるんだから」
楓は和希をちらりと睨み、大きく溜息をつく。
「コ・ドライバーは、ただ横に乗ってるだけじゃないわ。ドライバーの命と、車のすべてをコントロールする――裏の支配者よ」
「……『裏の、支配者』……!」
藍華の目が、ぱあっと輝いた。
和希の泥臭い金の話を聞いていた時とは、比べものにならない食いつき方だった。
「すっげえ……超カッコいい。支配者!」
「あら、なら素質あるかもしれないわね。こいつよりずっと見込みがありそう」
「ちょっと待てお前ら! 俺を無視して勝手に師弟関係を結ぶな!」
抗議する和希の声は、完全に無視される。
「ノートの読み方、教えてあげる。とりあえず一緒にお昼食べに行きましょ。ラリーのルールもその時話すわ」
「はいっ、楓さん!」
謎の意気投合を果たした楓と藍華は、そのまま工場の外へ向かった。
シャッターをくぐる直前、藍華が振り返る。
「まえキー、昼メシ買ってきたから食べてね!」
稀昭は作業台の脇に置かれたコンビニ袋を覗き込んだ。
「いや、藍華、この量……」
返事を待たずに、妹の姿はシャッターの向こうへ消えていた。
「おい、待て! 俺も飯……!」
昼食は楓にたかるつもりだった和希は、慌てて荷物を載せ終え、二人のあとを追う。
稀昭は一人、袋の中身へ視線を戻した。
「……僕ひとりでこれ食べきれないんだけど」
セイコーマートのホットシェフ。
カツ丼、カツカレー、豚丼、フライドチキン。
しばらく途方に暮れたあと、稀昭はカツ丼を手元に残し、残りを冷蔵庫へ押し込んだ。




