第一話「夜明け」
寝落ちというものは、とても心地がいいものだ。
普段、熟睡できない体質だから、この時ばかりは天に召されてもいいとさえ思える。こんな、PC前に倒れ込んでいる過労死寸前のサラリーマンみたいな体勢であれだ。
そんな至福の時間を邪魔するかのように、大きな足音がどんどんと近づいてくる。
ったく、誰だよこんな時間に。まだ昼前くらいだろ。ネカフェってのはマナーのなってない連中が多いったりゃありゃしない。共同生活の心得を修学旅行で学んでないってのかよ、クソが。
もちろん俺はそんな行事参加したことはないのだが。
天国から地上に引きずり下ろされたような胸糞な気分のまま二度寝しようとしたところ、例の足音が俺のブースの目の前でピタッと止まる。
おいおいおい、勘弁してくれよ。俺が何かしたってんだ?
家賃の延滞は……あ、ここネカフェだ。
携帯代の支払いは……そもそも持ってない。
仕事に遅れ……俺、無職だった。
心当たりがなさすぎる。
健全かつ善良なホワイト人間のはずですが?
そんな不安を煽るように、カチッと何かのロックが解除されるような無機質な音が鳴る。
間違いなくドアノブに手をかけているだろ。不法侵入は犯罪ですよ。
そういえば昨日、鍵閉めたっけ? やべー、寝落ちしちまったから完全に覚えてねぇ。確認しようにも怖くて目なんて開けられねぇ。
万事休す、絶体絶命とはまさにこのこと。
威勢のいい暴力的な言葉は物理的に投げられない(精神的にも無理だが)。
せいぜい浜辺に打ち上げられた小魚のように、その場でバタバタするくらいしかできない。それも怖くてできないから情けない。
そして俺の不安は的中する。
物凄い勢いで、城門が破られたのだ。
俺はこともあろうか反射的に正座の体勢で目を瞑り、頭を低く落とし、両手を高らかに突き上げていた。
そう、物乞いの勇者ポーズを。
「やっと生存者を発見したわ」
突き放すような尖った口調。それでいて張りのある、みずみずしい声色。歳は十七、八といったところか。声の位置からして身長は百六十センチちょっと。
長年ヘヴゲをプレイしてきたおかげで、こんな危機的状況でも分析能力は健在である。
「アンタ、いつまでそんな物乞いみたいな格好してんのよ。まるで……って、そんなことより早くここを離れるわよ」
何を言ってるんだこの人は。ここはマイホームだぞ。勝手に人のブースに入ってきておいて無礼な奴め。……とはいえやはり怖くて頭は上げられないし、目も開けられない。
「何とか言いなさいよ」
喋れるならとっくに喋ってるよ。
長らく人と接していないせいか、怒りのようなものが込み上げてくる。
ここ数年で会った人間なんて片手で収まる程度。このネカフェの店長、通称マスターくらいだ。そんなマスターでさえ軽く会釈する程度。女の人なんてもってのほかだ。
俺は心臓が落ち着くのを待ち、恐る恐る顔を上げた。
そこに立っていたのは、まるでゲームに出てくる女剣士のような格好をした少女だった。
腰まで伸びたクリーム色の長髪に、黒みがかった朱色の瞳。童顔な顔立ちには似つかわしくないほどのたゆんたゆん加減。それでいて華奢な身体にピタリと密着する薄手の衣類。
耐熱性と防寒性を併せ持つフェアリーホーンの素材を加工したものだろう。動きやすいショートパンツにスカート付きときた。
剣は……なるほど、ホーンスピアか。フェアリーホーンの角とギリアス鋼を鍛えた代物。俊敏性と耐久性を兼ね備えた名剣。武器防具ともに統一性があり、なかなか筋がいい。
惜しいのは加護系の装飾品が少ないことくらいか。
「なにジロジロ見てんのよ!」
最小限の動作で腰の剣を抜き、切っ先を向けてくる彼女に、慌てて両手を振って敵意がないことを示す。
ボク、声、出せない。
ボク、喉、死んでる。
決死のジェスチャーが通じたのか、彼女は剣を鞘に戻してくれた。これで一安心だ。
しかし、なんでこんな所にコスプレ少女がいるんだ? コスオタがネカフェにいても不思議ではないが、それよりも何故ヘヴゲのコスなんかしてるんだ。この歳の子は知らないだろうに。
不思議がる俺をよそに、彼女の顔色が変わる。
同時に、地響きを伴う何かの咆哮が三十メートルほど先の上空から響いてきた。古い建物だけあって、壁や天井に振動が伝わるのがわかる。なにより、時折落ちてくる大粒の黒い埃がこの店の歴史を感じさせる。
今度は何だよ。動物にしては鳴き声がデカすぎる。この辺に動物園なんてないぞ。仮にあったとしても、あんな荒々しい咆哮を上げられる動物なんてそうはいない。
いるとすれば――。
「……まずい、気付かれたわ」
気付かれたって何にだよ。
思わず立ち上がろうとした瞬間、彼女は制止するかのように俺の頭を雑に掴み、そのまま床へ叩きつけた。
俺たちは低い体勢のまま、対象が通り過ぎるのを待った。
……これはこれで悪い気分じゃない。少女との密着度がレベチすぎて鼓動が高鳴る。
つか、あんな咆哮を出せるのは最低でもワイバーン以上の龍種だろ。ワイバーンなんて魔獣が現実にいたら、遭遇した瞬間に首を食いちぎられてゲームオーバーだ。
事なきを得たのか、俺の頭を掴んでいた手が緩む。
彼女は太ももについた埃を払うと、警戒を解かないまま静かに口を開いた。
「この辺りは赤いドラゴンの住処なの。彼らはとても凶暴で、餌と認識した獲物を無限に追ってくるわ。死にたくなかったら、迂闊な行動は取らないこと。わかった?」
……聞き間違いかな。今、確かに赤いドラゴンと仰いましたよね?
それってレッドワイバーンのことですよね?
彼女の冒険者姿にレッドワイバーンの存在。
本当にヘヴゲの世界に迷い込んじまったってのかよ。
いや、待てよ。
この空間は長年慣れ親しんだネカフェそのものだ。ヘヴゲの世界に、こんな近代的な施設は存在しない。
身体の感覚的にも、チュートリアル的な導入がない点からしても、どうやら転生の類ではなさそうだ。
――なら、ここはどこだ。
俺は確かめなければならない。自分が置かれているこの状況を。
勇気を振り絞り、勢いよくブースの扉を開ける。そのまま店の裏口へ飛び出し、年季の入ったアスファルトの階段を全力で駆け上がる。
普段ろくに運動していないせいか、二階から三階までの距離がやけに長く感じた。
「待ちなさい!」
彼女の制止を意に介さず、階段と屋上を隔てる防火扉を開く。
――嘘だろ……。
目の前に広がっていたのは、夢にまで見たヘヴンズゲートの舞台――あの大陸だった。
後にこの地に住む人々は、千年前の神域戦争を勝利に導いた、光の神ヌフラムの聖域にちなんで、こう呼んだ。
ヘヴリア大陸、と。
雑居ビル群はそのほとんどが倒壊し、膨大な量の苔に覆われている。かろうじて原型を残しながら、遺跡のように朽ち果てていた。
舗装された道路は一切見当たらず、まるで大平原のように草が生い茂っている。
そして――成り果てた世界を駆け回る魔獣種や龍種。
翼を持つ原生生物の羽ばたきが、力強い風をもたらす。
ずっと暗がりにいたせいか、それとも現実とは異なる天体法則のせいか、太陽がやけに眩しく感じられた。
視線の遥か先には微かに古代遺跡も見える。
恐らく、魔導都市ウィザルディアや剣皇国シンソルヴァも存在するのだろう。
そして――それらすべてを抱擁する神々の地までもが。
現実世界と融合した、剣と魔法の異世界が、目の前に広がっているのだ。
ここにならあるかもしれない。
ヌフラムの門が。
「眺めている分には、素晴らしい景色でしょ」
ああ。素晴らしい、なんて言葉が陳腐に感じるほどにな。
知らぬ間にこぼれていた涙を拭い、ゆっくりと振り返る。
目の前に突きつけられていたのは、ホーンスピアの切っ先。鋭い刃が鼻先すれすれまで伸びている。
剣を握る彼女の手は固く締まり、その表情は風の神フュンディーニのように冷たい。
「それで――貴方、何者?」
それは、今俺が一番知りたいことなのだが……。




