5.花の香り
ミドリはベッドの上で目覚めた。身体はまだなんとなくだるい。
外は明るく、どうやら今は昼のようだ。窓からの光が眩しくて顔を背ける。
カレンダーはあの日のまま。
ずっとベッドの上で過ごしていた。天井をただただボーっと見つめる毎日。
あれから部屋を一歩も出ていない。
枕元の携帯を見るとうっすら埃が被っていた。画面には表示しきれないほどの通知が大量に溜まっている。
ミドリは上半身だけ起こすとヘッドボードに寄りかかって座った。
留守電が一件入っていた。リーダーからだ。
『俺だ、久しぶり。あれからだいぶ経ったがどうだ?親友を失って、辛いとは思う。俺も昔大切な人を失って気が狂いそうなほど苦しんだ。だからよく分かる……でも、だからこそこのまま独りでじっとしてちゃ駄目だ。どこかで気持ちを切り替えないとな』
彼は話を続ける。
『それで、そろそろ仕事に戻ってみないか?あ、仕事といってもいきなり動き回る訳じゃなくて……その、ちょっとした手伝いをして欲しいんだ。先週、俺たちのチームに新人が配属されてな……』
(新しい人……アイの代わりってことか)
『で、明日そいつに仕事について講義をするんだが、先輩として君からも実際の経験を元にアドバイスしてやって欲しいんだ。ちょっと考えてみてくれ。じゃあな!』
リーダーは優しい人だ。
世話を焼くのが好きで熱血で、ちょっと声が大きくてうるさくて。でもいつもチームみんなの事を大事に思ってくれている、そんな人だ。
ずっと部屋に篭りきりの私の事も気にかけてくれているようで、なんだか申し訳ない。
彼の事だからいつか絶対何らかの形で励ましてくるだろうとは思っていたけど。優しい人だから。
でも、本当に申し訳ないけど……その程度の言葉で私がすぐ元のように元気になれる訳じゃ無いし、アドバイスなんてなおさらいらない。
聞きたくない。
この世界にはアイはもういないんだから。
私が外に出る意味はもはや無くなった。私の世界は終わってしまった。
外は私を拒絶する世界。私なんかいちゃいけない世界。
当たり前のように会話し、当たり前のように人と群れて生活し、当たり前ができない者はまるで化け物のように見なされる……そんな人種が闊歩する世界。恐ろしい世界。
そんな世界で、これから先ずっと一人で生きていけるのか。彼女の支え無しで生きていけるのか。
無理だ。無理に決まってる。
外にはもう出たくない。出られない。
でも、リーダーから講義の手伝いを誘われてる……どうやって断ろう?
彼は返信を期待しているだろう。今か今かと携帯をチラチラ見ながら待ち侘びているはずだ。
誘いを断るという事は、どうやったって彼を落胆させてしまう。それはそれで心が苦しくなるし……
こういう所も駄目だな、私。
気が利かない。うまく答えられない。うじうじしてさっさと返信できない。
返信しなければという気持ちと外へ出たく無いという気持ち、心配してくれてるリーダーを悲しませたくないという気持ちがごちゃごちゃ混ざり合って頭がノイズでいっぱいいっぱいになる。
アイならこういう時、サッと場にあった返事を考えてうまくやれるのに……
ミドリは布団を深くかぶって丸くなり、きつく目を瞑った。
考えるという事から一刻も早く逃げ出したかった。もうこれ以上何も考えたくなかった。
静かな部屋にミドリの呼吸の音とたまに擦れるシーツの音が響く。
やっぱりリーダーに何か返信をしようと布団をかぶったまま携帯があったはずの方に手だけ伸ばす。
二、三回手で探ると硬いものに当たった。
持ち上げようとしたが、少し持ち上がったところで手からするりと滑り落ちて布団の上にまた戻ってしまった。
渋々ベッドから顔を出すと、携帯の液晶はいつものホーム画面ではなかった。
落とした時に指が変に引っかかって写真のフォルダが開いてしまったようだ。
サムネイル表示で少し小さいが、どこで撮ったか何していたかなどはなんとなく分かる。
(あの頃はアイに連れられて色んな事したな……色んな人に会って、色んな物を見て……)
アイとの思い出が色々浮かんでくる。
こちらから呼ぶまでも無かった。
いや、むしろ私から呼んだこと無かったかもしれない。
無意識だったけど、なんだかんだいつも隣にアイがいた。たまに一人にして欲しいなって思うくらい。それくらい、常に一緒だった。
一緒に笑って。一緒に泣いて。
あんまりにもひっきりなしにアイから電話が来るもんだから、一度だけうるさいな!って私が怒って大喧嘩した事あったな。
お互い意地張って三日も口聞かなかった。
でも三日目の晩にアイが寂しがって電話してきて仲直りというか……なんかうやむやな感じで終わったんだっけ。
本人がいきなり部屋に押しかけて来たことも何度もあった。どこか行こうとしてドアを開けたらいてびっくり、なんて事も。
元々の彼女の性格もあるんだろうが、部屋に篭りがちな私の事を少し気遣ってくれていたんだろう。
そう、あの頃には戻れないんだ。戻りたくても。
胸の奥がギュッとなる。背中や足から冷たい何かが体を這い回りザワザワし始める。
私、一人なんだ。分かってはいたけど。
私、この世界で独りぼっちなんだ。
この言いようの無い不安を、誰かに打ち明けたい。苦しみを吐き出してしまいたい。
けど、外が怖い。人が怖い。
会話したく無い。そんなのできない。
突然ガコンという音が静かな部屋に響いた。
玄関のドアの郵便受けに何か入ったようだ。
(リーダーかな?あるいはソシキから?体調不良とはいえ、ずっと休んでるから何か罰でもあるのかな……怖いな)
恐る恐る郵便受けの封筒を手に取る。見ると、宛先はミドリでは無かった。
(あれ?キミコ様へって書いてある……これ、間違って届いたんだ)
キミコさんはミドリのちょうど真上の部屋に住んでいるお年寄りの女性だ。造竜の中では最高齢らしい。
彼女は部屋で何十種類もの鉢植えの花を育てている。他にも花を育てている造竜はいるが、その種類の多さはおそらく彼女が一番だろう。
以前、ミドリも一度アイに連れられて花を見せてもらいに行ったことがある。
部屋いっぱいに色とりどりの花が咲き乱れ、みずみずしいとてもいい香りがした。
こういう時に限って何か起こるもんだ。
外に出たくないし無視して寝ていたい。でも、それではキミコさんが困ってしまう。
仕方ない、届けに行かないと。
大事な書類でこの郵便を待っているかもしれないし、もしかしたら急ぎの用件かもしれない。
(キミコさんか……)
いつも穏やかでニコニコしている優しいおばあちゃんだ。よく部屋に人を招き入れては色々な相談に乗っていると聞いた事がある。
彼女なら怖くないかもしれない。頑張れば少しは話ができる気がする。
ミドリは寝癖でボサボサの頭を手で軽く整えると、キミコさんの部屋に向かった。
歩く事すら久しぶりで足の動きが少しぎこちない。階段を上がる時何度もつまづきそうになったほどだ。
すぐ上の部屋なのにすごく遠いように感じた。
キミコさんの部屋の前に立つ。
もしかしたら追い返されるんじゃ無いか。迷惑なんじゃ無いか。
恐怖が次から次へと湧き上がってきて、もう目の前なのに足がガタガタ震える。
怖い。今すぐ引き返してしまいたいくらい。
今まで一人で行動した事なんて無かった。いつも何をするにもアイが一緒だった。
陰で金魚の糞と笑われていたほどだ。
でも、今日は一人。
とはいえ、やっと心を決めてここまで来たんだ。引き返す訳にもいかない。
勇気を振り絞り両足に力を入れて立つ。背筋を直し軽く咳払いをする。
空中で手を扇ぎ手汗をごまかし、恐る恐る扉をノックするとしばらく間を置いては〜いという明るい声と共に足音が近づいてくる。
開いた扉から柔和な顔つきの女性が現れた。
彼女も高齢とはいえ造竜で、その戦闘用に造られた体ゆえにほとんどシワも無ければ髪も黒くて見た目では年齢を感じさせない。
しかし物腰や所作が繊細でどこか落ち着いていた。
ニコニコと出迎えてくれたが、すぐに驚きで顔を強張らせた。
「あら、あなたどうしたの……?!そんな顔して……!」
ミドリにとって久しぶりの生の人の声だった。とても暖かい声。
ミドリの頬にゆっくりと雫が一粒、また一粒と伝って落ちていった。自分では泣いているつもりは無かった。全くの無意識だった。
泣いている事に気づくと涙が余計に量を増し、止まれと命じる自分の意志に反して勢いよくボトボトと落ちてくる。
ただ事では無いと察したキミコさんは、突然の訪問だったが何も咎める事なく部屋に引き入れてくれた。
ミドリは椅子に座り、キミコさんから差し出されたティッシュで涙をぬぐうと足元を見つめたままポツリポツリと話し始めた。
たまに言葉を詰まらせながら、包み隠さず全て話した。
アイの事……
あの日の出来事……
何もできない自分の事……
ミドリが辿々しく話をしている間、キミコさんは全く急かす素振りを見せず、時々相槌しながらミドリが全てを吐き出すまでのんびりと待ってくれていた。
その雰囲気がミドリにはありがたかった。
いつも要領良く喋るのが苦手ですぐ相手に急かされて、話したい事がまとめきれず結局うやむやになってしまうのだ。
話しながらゆっくりミドリのペースで一つ一つ物事を整理できた。
頭にずっとかかっていたもやがはれて少しずつスッキリしていく。
話し終わる頃にはミドリの心はだいぶ落ち着いていた。周囲の華やかな香りがやっと鼻に届いてきた。
冷静になった途端、顔中が涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっているのに気づき、慌てて涙を拭き取る。
人前で、それもほぼ初対面の人相手に顔が崩れるほど大泣きしてしまった……顔から耳の端まで一気に熱くなる。
涙が少しカピカピになってしまったのも余計に恥ずかしい。
机のティッシュをもらい鼻をかんでいると、黙って考え込んでいたキミコさんがふいに口を開いた。
「アイちゃんの事は……本当に辛かったわね。私も今まで長々生きてきて色んな理不尽があったけど、そこまではなかった。今日まで一人でよく頑張った。さぞ辛かったでしょう……」
「はい。でもすごく元気に、」
「おべんちゃらはいらないわ」
社交辞令だとすぐに見破られてしまった。さすが年の功、無駄に歳を重ねてはいない。
「まだあの光景が未だに忘れられなくて、ベッドで寝てばかりで……」
「そう……」
キミコさんは悲しそうに瞼を伏せた。
しかし、この時ミドリは悲しみの他にじわじわと前向きな気持ちも一緒に湧き上がってきているのを感じていた。
「……でも、今ここで話してみて少しだけ楽になったような気もします。ほんの少しだけど」
「あら、本当?」
「本当」
これはお世辞でもなんでもない、ミドリの本音だ。
暗い気持ちもまだ残っているが、まるで何か魔法に掛けられたかのようにやけにスッキリしている。頭の中に広がっていた深いもやもいつの間にか晴れていた。
「よかった、それでいいのよ。つらいことがあったら誰かに思い切り吐き出して、わーっと泣いて。落ち着いたら、また前を向いていくの……そうやって強く生きていくのよ」
窓辺に置かれた鉢植えの花が風に揺れていた。
今日は風が強いみたいだ。
時々ひらひらと花びらが舞う。




