【第三章 消された記録】 『第12話 教頭の嘘』
午後六時。
指定された場所は駅前の小さな喫茶店だった。
美咲は約束の十分前に到着していた。
落ち着かない。
何度も店の時計を見てしまう。
神谷の死以来、自分でも驚くほど神経が尖っていた。
店のドアベルが鳴る。
入ってきたのは佐伯真由だった。
青葉高校の教師。
三十歳前後。
神谷と同じ学年団だった女性だ。
「神谷先生の奥様ですね」
美咲は頷く。
佐伯は周囲を確認してから席に座った。
その仕草だけで分かる。
彼女は怯えている。
「本当に来てくださったんですね」
「主人のことを知っているんですか」
佐伯は答えなかった。
代わりに鞄から茶色い封筒を取り出した。
かなり厚い。
そして。
見た瞬間。
美咲の呼吸が止まりそうになった。
封筒の表には神谷の字でこう書かれていた。
『もしもの時は妻に渡してください』
「これ……」
「神谷先生から預かりました」
佐伯の声は震えていた。
「亡くなる三日前です」
美咲は封筒を見つめる。
指先が震える。
「どうして今まで」
「怖かったんです」
佐伯は正直に答えた。
「私も」
「神谷先生も」
「何かおかしいと思っていました」
店内に静かな音楽が流れている。
だが二人には聞こえなかった。
「主人は何を調べていたんですか」
佐伯は少しだけ俯いた。
「最初は朝倉結衣さんの件でした」
その名前が出た瞬間。
美咲の身体が強張る。
「でも途中から違ったんです」
「違った?」
「結衣さんだけじゃなかった」
佐伯は言った。
「過去十年間です」
「え?」
「青葉高校で扱われた虐待案件」
「家庭内暴力」
「いじめ」
「自殺未遂」
美咲は言葉を失う。
十年間。
そんな規模だったのか。
「神谷先生は気付いたんです」
佐伯は続ける。
「不自然なくらい解決済みが多いことに」
沈黙。
「普通はありえません」
「問題家庭の案件は何年も続くことがある」
「でも青葉高校の記録は違った」
「全部きれいに終わっているんです」
「誰かが……」
美咲が呟く。
「消したんです」
佐伯は答えた。
その時だった。
美咲の背後で椅子が動く音がした。
二人は同時に振り返る。
スーツ姿の男。
新聞を読んでいる。
ただそれだけ。
だが。
佐伯の顔色が変わった。
「どうしたんですか」
「昨日もいました」
小さな声。
「学校の前で」
「帰り道で」
「そして今日も」
美咲の背筋が冷える。
監視されている。
そう理解した。
一方。
神谷と結衣もその男を見ていた。
「先生」
「分かってる」
神谷の表情が険しくなる。
見覚えがある。
どこかで。
だが思い出せない。
「会ったことがある」
神谷は呟く。
その瞬間。
また記憶が閃いた。
雨の夜。
橋の上。
自分の前に立つ男。
高坂遼の父。
そしてその後ろ。
黒い傘を持つスーツ姿の男。
今。
喫茶店にいる男と同じだった。
「そうか……」
神谷の顔から血の気が引く。
「こいつだ」
結衣が振り返る。
「え?」
「橋にいた」
その言葉と同時に。
男がゆっくり顔を上げた。
まるで。
神谷の視線に気付いたかのように。
そして。
誰もいない空間に向かって。
不気味に笑った。
神谷の背筋を。
死んでいるはずの身体にさえ寒気が走る。
見えている。
そんなはずはない。
だが。
男は確かにこちらを見ていた。
「先生……」
結衣の声も震えていた。
「今の……」
神谷は答えられなかった。
ただ一つだけ分かる。
自分たちは。
想像以上に危険な相手を追っている。
そしてその夜。
美咲は神谷の封筒を開封する。
中に入っていたのは――
朝倉結衣。
高坂遼。
そして青葉高校。
全てを繋ぐ一枚の名簿だった。




