第十八章:夢の願い
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乳白色のお湯にラベンダーの香りがふわりと漂う。
射川竹人はゆっくりと湯船につかるとお湯をすくって顔を洗った。
そして大きなため息を一つつく。
時刻は23時をとうに回っていた。
明人には先にお風呂に入らせたので
今頃はもう眠っているはずだ…。
それにしても…。
僕が失踪している間に明人が経験した事を
先ほどまで明人から聞いていたところだったが…
それらが予想以上に明人を苦しめていたことに愕然とする。
自分を傷つける日々、入間や日高君との出会いと夢でのリンク、
イネ=ノと現代での再開、そして葛藤…。
僕がいない間明人はどれだけ戸惑い、そして傷ついたことだろう…。
なによりも一番ショックだったのは僕がいなくなって
精神バランスを崩し精神科に何度も入院していたという事実だった。
今も薬を服用中で夜は睡眠薬を飲まないと眠れない日々もあるのだとか…。
ただでさえ体が弱くたびたび喘息の発作を繰り返しては入退院を繰り返していた
明人が精神科のお世話になるなんて…。
ストレスから喘息の発作を起こす事もたびたびありまさに悪循環だ。
僕でさえイネ=ノの世界にいるとき、一瞬精神的に混乱した時もあったのだから
明人にとっては更に辛いものだったに違いない。
実の兄が行方不明になる。
まずこれだけで十分すぎる打撃だ。
そこへ入間の夢の話しで混乱し、
更に日高君の自殺未遂を目の当たりにする…。
そして兄そっくりの他人が現れ…。
もし僕が明人の立場に立っていてもやはり平常ではいられなかったかもしれない…。
だが…。
だが、イネ=ノは異世界に帰り、
そして僕はこの世界へ戻ってきた。
明人もそれを認識できている。
僕本人が帰ってきたという事実…。
これがどれだけ明人の精神に良い効果につながるか…
少しでも期待したい所だが…。
また一つ、大きなため息をつくと
湯船から立ち上がった。
洗面所で着替え歯磨きした後スリッパをパタパタと鳴らしながら
台所に入る。
中に入るとふわりと温かいぬくもりに包まれた。
ダイニングテーブルにひじをつけてティーカップの湯気を吹き飛ばしている
母の姿を見つける。
「お風呂空いたよ。じゃあ僕もう寝るから」
互いにお休みなさいと挨拶して台所のドアを閉めた。
玄関ホールから階段のほうを覗くと静まり返った静寂が帰ってきた。
どうやら明人ももう寝たようだ。
ゆっくりと階段を上がり2階の廊下に着くと
なんとなく明人の部屋のドアの前に立った。
ドアノブに手を掛けたのだが、ドアノブは回さずにおいた。
静かだ。
きっとぐっすり眠っているに違いない。
ちょっとほっとしてきびすを返すと自分の部屋へと向かった。
そして自室のドアを開け照明をつけた所で
思わず声を上げそうになる。
なぜって、僕のベッドの上で明人が眠っていたからだ。
な…。
なんで?
すると照明の明かりに気付き明人がまぶしそうに目を細めながら
上半身を起こして見せた。
「うー…ん…、あ…お兄ちゃん」
「明人…。なんでお兄ちゃんのベッドで寝てるんだよ?」
「ごめんなさい。一つ忘れてた事があって」
「忘れてたこと?何?」
ゆっくりとベッドに腰を下ろし明人の頭をくしゃくしゃとなでて見せた。
へへ、と笑いながら明人はちょっと照れくさそうに笑って見せると
僕のその手を取ると自分の胸の前に持ってきて大切そうに抱いて見せた。
「一体なんなの?」
「あのね…さっきまでお兄ちゃんがいない間のリィーンの話とかしてたでしょ?」
「うん。」
「最後に、夢の中で観月先輩に会ったって話しするの忘れてたから…」
「え?………」
先ほどの明人の話しにボリュームがあったのと、内容が濃かったことから
その事をすっかり忘れていた。
やっとの事で思い出すとちょっと間抜けっぽい声を出す。
「ああ…そういえば…そうだったね。」
「うん。
僕、夢でね、観月先輩に会ったんだ。
僕、リィーンみたいに夢の中にもぐれる力があるのかもしれない!」
「ええ?まさか…」
「だって!本当なんだよ…。
まぁ、聞いてよ、僕の夢の話し」
一つ観念したように大きなため息をついた。
「はいはい、分ったよ。で?どんな話しなの?」
「うん…あのね、」
-2-
真っ白く濃厚な霧が立ち込めていた。
数メートル先は霧に覆われ何があるのかも全く分らない状態だ。
視界はかなり悪い。
そんな状況の中をなぜか僕はゆっくりと歩き続けていた。
霧の先に何があるかも分らないそんな状況なのに、
それでも一切の恐怖心はなく、もうこの先に何があるのかを
把握しているような妙な安心感を抱きながら、
僕はただただゆっくりと歩き続ける。
霧のせいか、気温は低い。
夏の高原がこんな感じだろうか。
だが寒いというよりも心地よさの方が先立った。
左手小指にはあの透明の石の指輪。
それに、僕は不思議な衣装を着ていた。
平安時代に出てきそうな着物に袴…。
色は淡い水色。
そう…これには見覚えがあった。
リィーンが着ていたものだ。
そうか…
僕はリィーンなんだ…。
ならば…と
その名前をそっと呼ぶ。
「フィディ」
指輪の石が光り輝きその中から巨大な蛇が表れ出た。
そして僕の体にゆっくりと巻きつく。
フィディの頭を優しくなでて微笑むと、
再び前を向いてゆっくりと歩き出した。
すると突如霧の中に巨大な鳥居が現れる。
それがある事を知っていたかのように僕は
目を細めもう一度フィディの頭をなでて見せた。
鳥居の下に人影を見つける。
その人物に向かって真っ直ぐ歩を進めるごとに
人影ははっきりと色形といった姿を映し出した。
僕と同じように平安時代の着物のようなデザインはからし色。
袴は小豆色をしている。
髪は黒く瞳は茶色い。
そう…顔は僕そのものだった…。
一瞬僕自身じゃないかと見間違えるほどだったが、
だが、僕ではないという認識の確信が心の中にあった。
その僕そっくりの少年は足を崩した格好で地べたに座り込んでいた。
なんだかとても辛そうだ。
僕の存在に気が付くとゆっくりと顔を上げた。
僕がその少年にそっと手を伸ばそうとすると、
途中で手が止まる。
まるでその先にガラスの板でもあるかのように
見えない結界のようなものが張られているのが分った。
この人が観月先輩だ。
なぜか僕はそう確信していた。
「あなたが観月先輩?」
すると僕の瞳を真っ直ぐにみつめた。
「僕の言葉、聞こえますか?」
しかし反応はない。
触れることも言葉を交わす事もできない…か。
すると少年は静かに涙を流し始めた。
何故泣いているのだろう…。
まるで自分の泣き顔を見ているような錯覚に一瞬陥る。
何故泣いているのだろう…。
何故?
と、
風が吹き、霧が少年の姿を霞ませた。
やがては全てが濃い霧に覆われ鳥居さえ見えなくなる。
そして…
意識はゆっくり…
ゆっくりと、
その世界から離れて行った。
-3-
「………」
「ね?あれは絶対観月先輩だと思う。」
「でも、向こうは名乗ってないんだろ?」
「ううん!!絶対そうだって!
間違いないよ!!」
「うーん…話を聞いてる限りじゃ
随分と…こう…ふんわりとした、というか
漠然とした夢のような気もするんだけど…。」
「本当だよ!!
なんでかは良く分らないけど僕、夢の中で
あれは観月先輩だってすっごく思ってたんだから!!」
「確信した、と?」
「そう!!確信!!
確信したの!!
絶対そうだって!!」
「………」
「信じてくれないの?」
「と言ってもねぇ…二人が会話してないから
なんの情報も得られてないし…。
まぁ…とにかく今日はもう寝ようよ。
もう11時過ぎてるんだよ?
明日起きれなくなっちゃうでしょ?」
「うーん…分ったよ…」
そういいながら明人は布団を自分の口元まで
かぶって見せた。
「こらこら、自分のベッドで寝てよ?
もう6年生だろ?」
「えー…いいでしょぉ…
折角久しぶりにお兄ちゃん帰って来てくれたんだし
それに今日は一段と寒いし…ねぇ?」
「ねぇ、じゃないの!」
そういって掛け布団をめくり取る。
「ああん!!寒いよぉ!!」
「ほーら!自分の部屋に行った!行った!!」
すると明人はくしゃみを一つしてみせた。
「ほぉ~ら!いつまでもこんな事やってると風邪ひくぞ?」
「お願いだよぉ。
今日が最後!!
ね?
明日からはちゃんと自分のベッドで眠るから!
ねぇ、お願い!!
お兄ちゃんは数日ぶりでも僕は2年以上お兄ちゃんに会えてなかったんだよ?
その間すっごく心配したんだから!!
ね?
いいでしょ?!
お願い!!」
「…………」
そう言われてしまうとなんとなく…。
大きなため息を一つつく。
「全く!!
本当に今日だけだからね?!」
「うん!!」
布団に入り込むと
目覚まし時計のタイマーをセットする。
「じゃあ、電気消すよ?」
そう言って照明のリモコンスイッチで照明を落とす。
布団の中はすでに明人のぬくもりで温かかった。
「ふふ…なんだか懐かしいね!
昔よく一緒に寝たもんね。」
「ずっと小さい頃だろ?」
「いいの!いいの!
…ああ…あったかい…」
まったく…本当に甘ったれなんだから…。
そういいながらも…実はまんざらでもない自分がいた。
そう…
異世界ではずっと明人の事を気にかけていた。
心配で心配で仕方がなかったのは紛れもない事実だ。
「またため息ついた!」
「え?」
「お兄ちゃん最近…というか…帰ってきてからため息多いね?」
「そ…そうかな?」
なんとなく明人に背中を向けてみせる。
「これから何が起るんだろうね…」
「あ、その事だけど、日曜日に羽鳥先輩と会うんだ。
その時に色々と聞いてくるから…」
「…うん」
「………」
「……お兄ちゃん、僕、
観月先輩に会いたい」
「……会ってどうするの?」
「聞きたいんだ…。
今、幸せかって」
「………」
「………」
時計が秒針を刻む音が聞こえる。
それ以外は静寂に包まれ
静まりかえっている。
静かな夜だ…。
やがて明人の小さな寝息が聞こえてきた。
なぜかそれが僕を穏やかな気持ちにさせる。
気管支が鳴る音も聞こえないし今夜は大丈夫そうだ。
紫苑君の事を明人は随分と気にかけているようだ。
リィーンの世界の中でも直接は会っていないのに…。
それにあれだけの事をされたのに、
幸せを願ってるなんて…。
「明人は優しいんだな」
かろうじて自分にだけ聞き取れるような
小さな声でそう呟くと
瞳を閉じた。




