(アンナの寝起き)
――午前六時十四分。
タミアラの街、宿屋の部屋。
「姉さま、無茶よ……。もう、食べられちゃうよ……ムニャムニャ」
アンナの声が耳元でして、カイトは驚いてベッドから跳ね起きた。
「ねえさま? たべられる?」
カイトには分けが分からなかった。だがそれよりもまず、今現在の状況を正確に分析することに努める。
「う、うーん」
何とも悩ましげな声を出して、アンナ・ニコラが寝返りを打つ。すっかりとはだけてしまった宿屋の浴衣。彼女の大きな胸の谷間がのぞく。いや、おっぱいの先端のポッチリが見えないだけで、ほぼ半裸の状況だった。
辛うじて、下半身は下着で隠れているが、黒いレースのスケスケで、生地も少ないパンツだった。
(こんなエッチな下着、姉ちゃん持ってたっけ?)
カイト・アベールは、脳内のエッチ項目に分類されているフォルダを探るが、そんなのは記憶には無かった。アンドレおじさんがアンナの下着を干している姿を時々のぞくが、こんな過激な下着は始めて見た。
「それに……」
(ここは、ボクのベッドだよ)
カイトは、もぬけの殻となった隣の寝台を見る。羽布団が床に落ちていた。寝相の悪いアンナの事だ、夜中に蹴飛ばして落としたのだろう。
そうして朝方となり寒くなり、カイトの布団の中に潜り込んできたのだった――と、想像する。
春先ではあるが、この地方でも早朝や深夜は冷え込むのだった。
「姉ちゃん。起きろよ!」
アンナの頭を軽くポカリと叩く。
「うーん、ピーちゃんダメだよ。マリヤ姉ェの指は食べ物じゃないよ……」
まだ寝ぼけていた。寝ぼけたまま、カイトに抱きついて来た。
(ぴーちゃん? まりやねぇ?)
カイトの知らない名前だ。
「まだ、寝てますの、アンナさん! 今日は朝早くに出発するから、早めに朝食を食べようと言い出したのは、アンナさんの方でしょ!」
旅館の部屋の窓が開き、入って来たのは生徒会長のマリー・アレンであった。
部屋の入口ドアには鍵が掛かっているので、共用バルコニーでつながる窓の方から入って来たのだ。
「あ、会長さん」
カイトはマリーと目が合い、そう言うしかなかった。
抱きつくアンナの寝間着は――ほぼ脱げていて――上半身裸でカイトに抱きついていた。
「か、カイト君の貞操の危機! 離れなさい! この、ド淫乱娘めが!」
マリーは慌てて、アンナとカイトの二人を引き離す。
「あ、れーれー? カイト、遂にアタシを襲ってきたんだぁ~」
アンナはようやく目を覚まし、ベッドから半身を起こす。
「姉ちゃん、服、服! それに、襲ってなんかいないよ! 襲ってきたのは姉ちゃんの方じゃないか!」
上半身裸のアンナのおっぱいの部分に、枕を押しつけて隠すカイト。
「あー。そうだっけかぁー」
開いていた目が再び閉じて、眠りそうになるアンナ。
「朝は、いつもこんなんですの?」
マリーが呆れて言う。
「うん、姉ちゃんは朝は苦手だし、寝相も悪いよ」
カイトが答えていた。頭をポリポリと掻いてベッドから降りる。
「うーん、夢見てた。何だか懐かしい、幸せだった頃の夢」
アンナはようやく脱げていた旅館の浴衣の袖に手を通す。
ホワワーンと語るアンナを見るカイト。
カイトが知るアンナは、所詮十年前からの間柄だ。それ以前を決して語ろうとしないアンナ。
幸せだったと語るアンナ――じゃあ、今はどうなの? 聞きたいと思う欲求のあるカイトだった。
「うーん! じゃ、朝飯にするべ」
大きく伸びをしてカイトに向かうアンナ。何かが吹っ切れたような笑顔に、再びドキリとする彼だった。
――午前六時三十五分。
旅館、宴会室。
「おう、お先に食べとるで」
旅館の二階に位置する宴会室。広い広い部屋。そこで朝食を食べていたミーシャ・フリードルが、カイトとアンナ、マリーの三人に向けて手を振る。
夜には宴会の開かれる部屋。前方にはステージがあり、出し物などが行われるのだ。朝の時間には朝食を提供する場所に変わる。
ミーシャは窓際のテーブルに陣取ってムシャムシャ食べながら、前に座るクロエ・ブルゴーとなにやら会話をしていた。
クロエは学園の制服姿だ。ミーシャの方は、昨日の黒頭巾団の制服を着る。黒い頭巾に、黒いタンクトップに、黒の半パン姿だった。足には茶色い革製の編み上げ靴を履いている。
食堂に来た三人も、既に学園の制服に着替えている。
「遅くなりましてすみません」
マリーは頭を下げて席に座る。クロエの横に腰掛けて、外の風景を見る。
「霧が深すぎて、何も見えないだろう」
クロエはそう言って、食べかけの焼いた魚の干物を皿の上に置いた。
「皆さまの朝食をお持ちしましょうか」
旅館の仲居が八人掛けのテーブルまでやって来た。早い時間であるので、他の客はまばらだ。
「ねね、どんなメニューがあるの?」
アンナはテーブルに身を乗り出して聞いてくる。彼女はミーシャの隣に座り、自分の左横にはカイトを配置していた。
「まずは、ご飯とパンが選べます。おかずは魚類が多いですね。湖で漁をして、獲れた魚を干物にしたり、甘辛く煮て佃煮にしたり……。お子さまが好きな卵焼きやソーセージもありますよ。お味噌汁やスープもお付けします」
仲居さんは、うやうやしく頭を下げながら言ってきた。
「ほう、至れり尽くせりだね。学校や寮の食堂みたいにセルフサービスじゃないんだ」
アンナは感心した声を出す。
「おかわりもお持ちします。何なりと申しつけ下さい」
仲居は再び頭を下げる。
「上等な旅館やろ。サービスは、一級品や。そやそや、この小魚の炊いたんは絶品やで。この辺の名物料理やからな」
ミーシャはそう言って小魚の佃煮を口に放り込み、お茶碗のご飯を掻き込んでいた。彼女が口を動かす度に、コリコリと音を立てていた。良く煮込まれた佃煮は、頭から尻尾まで、骨ごと食べられるのだった。
(タイタン?)
カイトは首を捻る。
「じゃあ、アタシはご飯大盛りに、佃煮と卵焼き。それにお味噌汁を頂くわ。カイトも同じので良いでしょ」
「う、うん」
首を縦に振る少年。アンナの命令には逆らえない。
「この海苔も美味しいぞ」
クロエは箸を上手に使い、味付け海苔でご飯を巻いて食べていた。
「ああ、じゃあそれも。あと、納豆もね」
「ええー!」
アンナの言葉に、カイトは不満の声をあげる。
カイトは、どうにも納豆が苦手であった。
「ウチも納豆は好かん! 何で、腐ったお豆さんを食べなーならへんねん!」
ミーシャは辟易とした顔で、味噌汁をズズズと啜る。
「あ、の、すみません…………」
遠慮がちにマリーが手を挙げる。
「何でしょう?」
仲居の一人が顔を出す。
「おかわり! それに生卵を一つ頼む」
マリーと仲居の会話を無視し、クロエは空となった茶碗を突きだしていた。
「あ、ボクも納豆の替わりに生卵を」
カイトも同じ仲居に、注文を出す。
「承知しました」
クロエの茶碗をお盆に載せて、仲居は引っ込む。
「あ…………」
マリーの挙げられていた手だけが残される。
「ハイハイ、何でしょう」
別の年配の仲居が、アンナの前に料理の載ったお盆を置く。
「ひゃー、美味そう」
手を合わせ、食事を始めるアンナ。早速、小鉢に入った納豆を、箸でかき混ぜ始める。
「あの、菜食主義者用のメニューはあるでしょうか? わたくしは魚や肉の他に、卵も食べられませんの。でも牛乳は、大丈夫ですのよ」
マリーは自慢の自分の胸を叩く。
「大丈夫ですよ。野菜のお漬け物や、豆腐などもあります。お味噌汁のダシには、煮干しを使わずに海草を煮出したおダシも用意させます。それに、ご飯でよろしいでしょうか?」
仲居から笑顔を向けられ、コクリと可愛くうなずくマリー。
「納豆も美味しいわよ。一度、食べてみんしゃい」
アンナはそう言って納豆をご飯に掛け一口掻き込んでから、卵焼きを頬張る。
「そ、そう? じゃあ、それもお願いします」
マリーの言葉を聞き、カイトの方を向いてクククと笑うアンナであった。初めての人間は、匂いでダメな場合が多い。
「こちらをどうぞ」
カイトの前にお盆が置かれ、クロエにはおかわりのご飯と小鉢に入った生卵が置かれる。
カイトとクロエは揃った動作で小鉢の中に卵を割り、大豆と小麦を発酵させ醸造した黒い液体をタップリと注ぐ。
茶碗に山盛りのご飯の中央に、箸で穴を穿ち、溶いた卵を流し入れる。
「うっぷ……」
二人の一連の動作を眺めていたマリーは、制服の胸ポケットからハンカチを取りだして、口元を押さえる。
「どうしたの? 生卵は、見るのもダメなのかい?」
アンナは、珍しいモノを見るかの様な目で、マリーを見つめる。その後、納豆ご飯を全て口の中に掻き込んで、旅館の仲居におかわりを要求していた。
「どうぞ~お待たせしました~」
別の仲居が、マリー用の菜食主義者の朝食膳を運んできた。
「コッチも美味しそうですね」
カイトはマリーのお盆をのぞき込み、彼女に向けて微笑みながら語る。
(かかかか、カイトキュンの1000点満点の笑顔♪)
マリーは嬉しくなり、小鉢に入った納豆にお醤油をドバドバと注ぎ込む。
「ああ、そんなに入れたら、からくて食べられへんで」
既に食事を終わり、デザートのフルーツヨーグルトを食べていたミーシャが言う。
「辛いんですか? その中に、唐辛子が入っているんですか?」
カイトはそう言ってミーシャに聞く。
「ちゃうちゃう、入ってへんで。塩辛いという意味や」
「そう、『しょっぱい』って意味で、ミーシャさんの出身地方では『からい』と言いますのよね」
マリーはそう言って、小鉢の納豆を一口食べて顔をしかめていた。豆の腐敗臭が彼女の鼻腔を襲っていたのだ。
それを見たアンナがクククと笑う。
「ミーシャさんの出身はどこなんですか? タミアラの街ではないんですよね」
カイトは味噌汁で、口の中の玉子ご飯を流し込み、ミーシャに聞く。
「うん、まあ、生まれたのは王都ティマイオスの近くなんやで、知らんやろ。ウチらのご先祖様は、王都があった場所で遊牧を営んでおった大人しい民族やったが、新しく都を作るとかで追い出されたんや。それが、四千年前の話。殺戮と戦慄の魔女『アナスタシア』が、ウチらの先祖に選択を迫ったんや。『大人しく領地を明け渡すか、そうでなければ死を選ぶか』平和的な解決を望んだウチらの部族長は、泣く泣く故郷を捨てて、痩せこけて牧草も育たないような土地に追いやられた。何が、伝説の女王さまや! 何が、五族協和や!」
一人熱くなり、朝食のテーブルにツバを飛ばすミーシャ。
「五族協和?」
マリーは、そうつぶやいて首をひねる。
四千年前に、四つの絶対君主制の国々が、危機を乗り越えて一つの立憲君主制国家へと移行した。
その時に、四つの異なる民族が協力して白色人の女王『アナスタシア』を君主として頂いたのであった。
では、その時に消し去られた民族の運命と行方は?
「まあ、神話にあるような融和的で平和な統一でなかったとは、後世の魔法歴史学者たちも見解を述べておるな」
食事をあらかた終えたクロエがお茶を啜りながら言った。平和統一がなされた後の時代に、大規模な戦争が行われた証拠と見られる古代都市の遺跡が発見されたのだった。
「殺戮と戦慄の魔女『アナスタシア』か――」
一人、真剣な表情のアンナは食事を終え箸を置く。
「――さて、皆さんそろそろ、行きますかな?」
立ち上がり言った。
◆◇◆




