表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第1章 『檻の中の脱走計画』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/12

エピローグ 「名前を呼ぶ声」

 


 夜の研究棟は静かだ。


 セレスティアは自室ではなく研究室に残っていた。

 机の上には今日一日の記録、面会照会への返答書類、保護管理区画の報告書、それからソラの健康経過表。


 書類は多い。

 やることも多い。

 だが、指先がなかなか進まなかった。


 灯りの下で、ペン先を紙へ落とす。


 ――対象、状態安定。

 そこまで書いて、手が止まる。


 対象。


 セレスはその文字を見つめたあと、静かに線を引いて消した。


 代わりに書き直す。


 ――ソラ、状態安定。


 その名前を書いた瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴る。

 痛みと呼ぶには薄く、違和感と呼ぶには深い、曖昧な揺れだった。


「…情が移りすぎているわね」


 背後から声がして、セレスは振り返った。


 いつの間に入ってきたのか、アルノーが扉のそばに立っている。

 薄青の髪をきっちりまとめた、副院長らしい隙のない姿だった。


「ノックくらいはしてほしいのだけれど」


「二回したわ。あなたが気づかなかっただけよ」


 そう言われてしまえば否定しづらい。


 アルノーは机へ近づき、書きかけの記録へ目を落とした。

 名前の部分を見て、目元だけでわずかに笑う。


「個体番号ではないの?」


「今さらでしょう」


「記録上は今さらではないわ」


 セレスはペンを置いた。


「用件は?」


「聖環教国への返答文、確認したいのだけれど」


「机の左端に」


 アルノーは言われた通り書類を手に取り、ぱらぱらとめくる。

 しばらく目を通したあと、淡々と言った。


「ずいぶん強い文面ね」


「弱く書いても引き下がらないわ」


「それはそう」


 アルノーは頷く。


「竜侯国もそのうち正式に動くでしょうし、商盟は商盟で別口から探りを入れてくる。あなたの“保護”は、これからますます政治になる」


 政治。


 その言葉に、セレスはわずかに眉を寄せた。


 分かっている。

 分かっているけれど、認めたくはない。


「だからこそ、こちらで守る必要があるわ」


「“守る”」


 アルノーがその単語を繰り返す。

 声音に嘲りはない。

 だが、観察するような響きがあった。


「あなた最近、その言葉をずいぶん多用するのね」


「事実でしょう」


「そうかしら」


 セレスは答えなかった。


 答えられない、が正しい。


 以前なら迷わず事実だと言えた。

 今も半分はそう思っている。

 でももう半分が、静かに揺れている。


 守ること。

 閉じ込めること。

 手放さないこと。


 その境界が、以前ほどはっきりしていない。


「彼に何を言われたの?」


 アルノーの問いは唐突だった。


 セレスは少しだけ目を伏せる。


 言われた言葉はいくつもある。

 優しくするなら逃がせ。

 俺の前だけ違っても意味がない。

 自分の檻に入れておきたいだけだろ。


 どれも痛かった。

 痛かったという事実そのものが、すでに問題だった。


「…怖い、と」


「あなたが?」


「彼が」


 アルノーは少しだけ黙った。


「そう」


「ええ」


「で、あなたは?」


 セレスは指先を組み、机の上で静かに力を込める。


「否定できなかったわ」


 研究者としてなら、いくらでも言い訳はできる。

 希少種保護。

 低魔力個体の生存管理。

 対外的危険からの隔離。

 どれも事実だ。

 間違っていない。


 でも、その全部を盾にしながら、自分がソラを“渡したくない”と思ったのもまた事実だった。


 それは綺麗な感情ではない。

 少なくとも、純粋な保護責任だけではない。


 アルノーはしばらく何も言わず、やがて書類を机へ戻した。


「扱いを誤らないことね」


「分かっているわ」


「ほんとうに?」


 静かな問いだった。


 セレスはすぐには答えられなかった。


 ほんとうに。

 その言葉を、胸を張って返せない自分に気づいてしまう。


 アルノーはそれ以上追及しなかった。

 扉へ向かいながら、最後に一言だけ残す。


「彼は研究対象である前に、意思を持ってしまっている」


 意思を持ってしまっている。


 ずいぶんな言い方だと思ったが、訂正する気にはなれなかった。


 ソラは最初から意思を持っていた。

 ただ、セレスたちがそれを“管理の範囲で起きる反発”として見ていた部分があっただけだ。


「ええ」


 小さく返すと、アルノーは出ていった。


 また静寂が戻る。


 セレスはしばらく机の前で動かなかったが、やがて立ち上がった。

 研究室を出て、夜の回廊をゆっくり歩く。

 魔力灯が等間隔に並び、白い壁へ淡い影を落としている。


 足が向かう先は、考えるまでもなかった。


 ソラの部屋の前で立ち止まる。


 扉は閉まっている。

 中は静かだ。

 明かりはもうかなり落ちていて、たぶん眠っているか、眠れないまま目を閉じているか、そのどちらかだろう。


 ノックはしなかった。


 ただそこに立ち、扉一枚向こうの気配を感じる。


 この扉は、最初からソラを守るためのものだと思っていた。

 外の危険から隔てる壁。

 弱くて脆い彼を生かすための、必要な境界。


 けれど今は、その扉が別の意味も持ってしまっている気がした。


 守るための扉。

 そして、閉じ込めるための扉。


 その二つの違いが、以前ほど簡単ではなくなっている。


「…私は」


 誰に聞かせるでもなく、セレスは小さく呟く。


 答えは出ない。

 まだ出ない。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。


 彼は、いつか本当に行ってしまう。


 衝動ではなく。

 癇癪でもなく。

 自分の意思で、ちゃんと考えて、ここを出ていこうとする。


 今日の会話で、それがよく分かった。


 そして、その時。


 自分は彼を止めたいのか。

 それとも見送るべきなのか。


 その問いに、まだ答えられない。


 胸の内側が、静かに軋む。


 守りたい。

 失いたくない。

 でもその気持ちが、そのまま正しいとはもう言えない。


 夜は深い。

 研究棟は静かだ。

 扉の向こうからは何の物音もしない。


 セレスはそのまましばらく立ち尽くし、やがてそっと踵を返した。


 歩き出してからも、胸の奥の違和感は消えなかった。


 守ることと、閉じ込めることは違う。


 そう信じていた。

 けれど今、その境界はあまりにも曖昧だ。


 そして何より。


 その境界を曖昧にしているのが、研究者としての責務だけではないことを、セレス自身がいちばん分かり始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

もし作品を気に入っていただけましたら、

下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。


★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/


また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ